Jリーグ新人選手「ABC契約撤廃」で日本サッカー進歩も…代表OBが考えるプロへの心構え【前園真聖コラム】

前園真聖氏がABC契約撤廃に見解(写真はイメージです)【写真:徳原隆元】
前園真聖氏がABC契約撤廃に見解(写真はイメージです)【写真:徳原隆元】

Jリーグは26年2月より「プロ契約ABC区分」を撤廃

 今でこそJリーグはJ1からJ3まで合計60チームで行われているが、発足前は日本にプロサッカーリーグが存在しなかった。そのため「プロサッカー選手になりたい」という希望を持つ少年は、さまざまな道を模索しなければならなかった。元日本代表MF前園真聖氏もプロ選手になることを実現させるため、当時の環境の中で努力を続けた1人。昔と今を比べて思うことは何か訊いてみた。(取材・構成=森雅史)

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 9月24日のJリーグ理事会で選手契約制度の改革を発表しました。Jリーグは発足当時、選手の年俸が高騰しクラブ経営を大きく圧迫する事態になったため、1998年から新人選手の年俸を制限する契約制度を導入していたのですが、その制限を緩和するようにしたものです。なお、変更は2026年2月1日から導入されます。

 海外のクラブが日本人の若手選手を取る時、Jクラブは年俸の低さが目立っていましたが、これで改善されることでしょう。そして、こうやって国内にプロサッカーリーグがあるということがとても貴重だということも忘れてはいけないことだと思います。

 僕が高校生だった頃は日本にプロサッカーがありませんでした。僕はどうしてもプロサッカー選手になりたかったものの、当時国内ではその夢は叶いませんでしたから、高校を卒業したら海外に行ってプロになろうと思っていました。

 高校の部活は本当に厳しかったのですが、その夢があったので頑張れたと思います。朝6時に起きてご飯を食べるとすぐに学校に行き、準備をしてから朝練をしていました。通常の練習は16時から20時ぐらいまで、毎日3、4時間ありました。

 1年生の時は球拾いもしていましたし、先輩たちの分もまとめて洗濯をしなければなりませんでした。20時に練習が終わって銭湯に行き、合宿所になっていた監督の家に戻ると食事は1年生が最後で、食べ終わったあとは洗濯をして、それでやっと就寝です。

 ちゃんとした休日というのは覚えていません。土日は練習試合や遠征が入っていました。修学旅行も練習や試合と重なっているので行ったことはありません。

 でも、あの当時は全国高校サッカー選手権大会が国内のサッカー大会では最も盛り上がっていました。毎年テレビで放送され、活躍すれば将来が開ける、海外に行ってプロになる可能性があると思っていたのです。

 そうやってトレーニングを続けていたらタイミング良くJリーグが発足して、1992年に「横浜フリューゲルス」に入団することができました。僕にとっては、「プロになるため海外に行く」と思っていたことが国内で実現できて、それは良かったと思います。

 ユース世代を取り巻く環境は、今だと、高校サッカーはありますし、Jクラブの下部組織もありますし、「高円宮杯U-18プレミアリーグ」や「U-18プリンスリーグ」のように高体連に所属するチームとJクラブのユースチームが対戦できる大会もあります。

 今の高校生にはいろいろな選択肢があります。自分でどこに入るか考えられるようになったというのも日本サッカー界が進歩したということです。

 ただ、僕は「もし今の時代に生まれていたら」とは考えません。あの時は高校サッカーしかプロへの足がかりになる場がありませんでしたし、「ほかの機会があったら」なんて考えても仕方がないですから。それよりも与えられたその場で精一杯のことをするのが大切だと思っています。

(前園真聖 / Maezono Masakiyo)

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前園真聖

まえぞの・まさきよ/1973年生まれ、鹿児島県出身。92年に鹿児島実業高校からJリーグ・横浜フリューゲルスに入団。96年のアトランタ五輪では、ブラジルを破る「マイアミの奇跡」などをチームのキャプテンとして演出した。その後、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)、湘南ベルマーレの国内クラブに加え、ブラジルのサントスFCとゴイアスEC、韓国の安養LGチータースと仁川ユナイテッドの海外クラブでもプレーし、2005年5月19日に現役引退を表明。セカンドキャリアでは解説者としてメディアなどで活動しながら、「ZONOサッカースクール」を主催し、普及活動を行う。09年にはラモス瑠偉監督率いるビーチサッカー日本代表に招集されて現役復帰。同年11月に開催されたUAEドバイでのワールドカップ(W杯)において、チームのベスト8に貢献した。

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