3年でJ6→J1デビュー 給食センターや旅館勤務の過去…“異例経歴”175cm小兵GKのシンデレラ物語【コラム】

札幌の児玉潤【写真:Getty Images】
札幌の児玉潤【写真:Getty Images】

札幌の児玉潤は2021年に都道府県リーグで戦っていた

 待ち焦がれてきたトップカテゴリーでの初陣は予期せぬ形で訪れた。首位に立つFC町田ゼルビアのホーム、町田GIONスタジアムに乗り込んだ9月21日のJ1リーグ第31節。北海道コンサドーレ札幌のゴールキーパー、児玉潤の名前がアナウンスされたのは、両チームともに無得点で迎えた後半42分だった。

 直前のプレーで、町田のFWミッチェル・デュークのシュートをセーブしようとした、守護神の菅野孝憲が右ポストに左指を強打してプレー続行が不可能になった。リザーブとしてベンチ入りして21試合目。27歳にしてJ1リーグのゴールマウスを守る児玉は「あっ、きたか」と心のなかでつぶやきながらゴールマウスに立った。

「残り時間が少ない状況でのスクランブル出場だったので、やるべきプレーはむしろ明確でした。意識したのはシンプルにノーリスクで、かつ失点ゼロのままでゲームを締めること。実はアディショナルタイムが何分だったのかもわかっていなかったので、もう時間は気にせずに、目の前の状況だけに集中していました」

 9分が表示された後半アディショナルタイムが、最終的には13分に達した。その間にMF相馬勇紀が放った鋭いクロスや、デュークのヘディングシュートを果敢にキャッチ。捕球が難しいと判断した後半55分には躊躇せずに飛び出し、デュークよりも先に左手をボールにヒットさせてピンチを未然に防いだ。

 菅野から急きょ託されたバトンをスコアレスドローで終えた児玉は、自身のプレーをこう振り返っている。

「パンチングで逃げてもロングスローで相手の2次攻撃になるので、キャッチできるボールはマイボールにしたいと考えていました。競り合った場面は、ああいうボールに対しては相手を潰しにいく気持ちでやらないと自分も怪我をするので。相手を常にリスペクトしていますけど、これは戦いなので遠慮せずにいきました」

 2020年春に桐蔭横浜大を卒業した児玉は、キャリアの大半をアマチュア選手としてプレーしてきた。プロから声がかからなかった児玉は、小・中時代に下部組織に所属したJFLの東京武蔵野シティFCに加入。夜間の練習が始まるまで練習場近くの武蔵野給食センターに勤務し、同市内の小学校7校、約3500人分の給食を作った。

 しかし、JFLで4試合に出場した同シーズンのオフに、Jリーグ参入を目指していなかった武蔵野を退団。当時は広島県社会人サッカーリーグ1部を戦っていた福山シティFCへ移籍する。カテゴリーをJFLの下の地域リーグよりもさらに下となる、数えて“J6”にあたる都道府県リーグへあえて移すとともに退路を断った。

 それは「2021シーズンからの3年間のうちに、プロになれなければ引退する」だった。児玉が言う。

「人生は長いし、働きながらサッカーをする、という生活にもいつかは区切りをつけようと思っていたので。福山に移籍してからもすべてを大好きなサッカーに捧げて、それでもダメならもう引退しようと。周りの環境などはいっさい関係なく、福山への移籍を正解にしようと思って毎日を積み上げてきました」

 身長175cmとキーパーとしては小柄な児玉は足元の技術を徹底的に磨き、積極的にビルドアップへ加わるスタイルを自身の武器に昇華させた。ロングボールを駆使する武蔵野では自身を生きないと判断し、最後尾から長短のパスをつなぐスタイルを志向し、Jリーグ参入を目指す福山に可能性を求めて移籍を決断していた。

 福山でもアマチュア契約だった児玉は、不動産会社の事務やイタリア料理店のホール、さらに老舗温泉旅館の調理補助などで生計を立てた。しかし、翌2022シーズンに中国サッカーリーグへの昇格を果たした福山は、同年11月の全国地域サッカーチャンピオンズリーグの1次ラウンドで無念の敗退を喫する。

 JFLへの昇格を逃し、3か年計画を成就できなくなった児玉は、福山に感謝しながら同年オフに退団を決意。将来を模索していた矢先に、全国地域サッカーチャンピオンズリーグでのプレーを評価してくれた、J3のY.S.C.C.横浜から練習参加のオファーが届き、千載一遇のチャンスを生かして念願のJリーガーになった。

 Y.S.C.C.横浜の守護神として、J3リーグで37試合に出場した昨シーズン。チーム側とプロ契約を結んでいなかったため、日産スタジアム内にあるレストランで働きながら日々の練習、そして週末の試合へ臨んでいた児玉は、オフの契約更新とともに念願のプロ契約を締結。個人昇格の形で最初の目標をかなえた。

「底辺のカテゴリーからはいあがってきた」

 迎えた今シーズン。J3リーグで6試合に出場していた児玉のもとへ、セカンドキーパーの高木駿が左膝前十字じん帯を断裂し、長期の戦線離脱を余儀なくされていた札幌から望外のオファーが届いた。Y.S.C.C.横浜の後押しもあって、札幌への完全移籍が発表されたのは第1登録期間が終わる前日の3月26日だった。

 2021シーズンからの3年で、カテゴリーを5つもあげるシンデレラストーリー。一心不乱に歩んできた道は間違っていなかった、という万感の思いを込めながら、児玉は町田戦でのJ1デビューを振り返っている。

「自分は本当に底辺のカテゴリーからはいあがってきて、札幌に移籍してからもなかなか出場機会が得られないなかで、それでも絶対に目標を見失わずに、自分だけは自分自身の可能性を信じようと思ってずっと取り組んできた。これまであきらめずに続けてきたのが本当によかったと思っているし、これまで自分を支えててきくれた人たちに感謝しながらもっと、もっと頑張らなきゃいけないとあらためて思っている」

 もちろんJ1デビューがゴールではない。キーパーという息の長いポジションで、トップカテゴリーでキャリアを積み上げていくうえでの通過点。キーパーを志したときから背中を追いかけてきた菅野と図らずもチームメイトとなり、憧れの存在からライバルに変わった現状を、児玉は冷静沈着な視線でとらえている。

「キーパーというポジションはひとつしかない。数少ないチャンスでそれをつかみ取らなければいけないし、チャンスが来ない状況も普通にありえるポジションですけど、それでも本当にやることを変えず、目標をぶらさずに取り組むのがすべてだと思っている。J1デビューまでの過程は本当に長い道のりだったけど、いままでコツコツと積み上げてきたものが形となってつながったと思っているし、これからもその姿勢は絶対に変わらない。続ける、ということは一番難しいかもしれないけど、これからも変わらずに積み重ねていきたい」

 札幌ではラウンド16で敗退した天皇杯で菅野に代わって先発を託された。今月4日の横浜F・マリノスとのYBCルヴァンカップ準々決勝第1戦では、味方に退場者が出た影響もあって6失点を喫して敗れた。公式戦で味わわされた悔しさも成長への糧にしながら、郷司弘和(柏レイソル)、堀池洋充(FC東京)と並ぶJ1リーグで歴代最小兵ゴールキーパーとなった児玉は、ゴールマウスで放つ存在感を大きくしていく。

(藤江直人 / Fujie Naoto)

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藤江直人

ふじえ・なおと/1964年、東京都渋谷区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後に産経新聞社に入社。サンケイスポーツでJリーグ発足前後のサッカー、バルセロナ及びアトランタ両夏季五輪特派員、米ニューヨーク駐在員、角川書店と共同編集で出版されたスポーツ雑誌「Sports Yeah!」編集部勤務などを経て07年からフリーに転身。サッカーを中心に幅広くスポーツの取材を行っている。サッカーのワールドカップは22年のカタール大会を含めて4大会を取材した。

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