“あの1本”を目の前で…「限界」だった足の痛み、最後の円陣で「ごめんなさい」と溢れた涙【現地発】
右膝の痛みこらえて奮闘も…北川ひかるのパリ五輪
これが世界との“差”——自らのサイドをぶち抜かれた北川ひかる(INAC神戸レオネッサ)は、失点後なかなか立ち上がることが出来なかった。キャプテンの熊谷紗希(ASローマ)から「立て!立て!」と声がかかる。まだ終わっていない、と。気持ちを奮い立たせて北川は持ち場に戻っていく。
その直前にも、トリニティ・ロッドマンにカットインを許していた。延長に入るまで、何とか持ちこたえていた日本の左サイドだったが、もはや限界を迎えていた。さらに延長直後にドリブルで仕掛けた際、相手との接触で倒れ込んだ北川が膝を抑える。
国内最後の親善試合で痛め、フランス入りしてからもリハビリを重ねてきた。焦りを覚えながらも懸命に復帰まで漕ぎ着けた、あの右膝だ。痛みに顔を歪めながらなんとか走り出したが、そもそも復帰したのは第2戦のナイジェリア戦だ。強豪アメリカとの90分を戦い抜いた末の延長戦に入った時、彼女の足は悲鳴をあげていてもおかしくはない状態だった。実際「足の状態はきついのは分かっていた」と本人も認めている。
そしてあの決勝ゴールが生まれてしまった。マークに入る北川。一本前はやや遅れ気味だったが、この時はゴールとロッドマンの間に身体を入れることが出来た。が、ここからの駆け引きは一瞬だった。ツメる一歩を踏み出した瞬間、ロッドマンがフェイントで右足からボールを左足へ流す。北川の重心はすでに逆を取られており、立て直そうとするもそのあとは成す術がなかった。そこから一気にゴールネットを豪快に揺らすのだから、相手が一枚上手だったとしか言いようがない。
ベンチに下がってからも祈るようにして戦況を見守り続けた北川だったが、ブラジル戦のような試合を振り出しに戻すゴールは生まれなかった。アイシングが施された両足で仲間の元に向かう。いつもどおりの円陣、いつもと異なるのはこれがオリンピック最後の円陣だということだ。そこで我慢は決壊し、涙が溢れ出た。スタンドから拍手を送られると「ごめんなさい」というように手を合わせる。「自分が隙を見せたあの1本で負けたのが申し訳ない」——大きな課題が北川の手に残された。
代表への想いを昇華させるために決意の移籍
おそらく、彼女は“世界”を肌で感じたこの一本の残像を消し去るために、自分を鍛え直す道を選ぶだろう。彼女は世代別代表からなでしこジャパンへの一歩を踏み出そうとした時、あまりのレベルの高さについて行くことが出来ずに“逃げた”ことがある。
「いっぱいいっぱいだった」時期は短くはなかった。それでも、諦められなかった代表への想いを昇華させるために一から守備を身体に叩き込むべく、浦和レッズレディース(当時)から、堅守のアルビレックス新潟レディースへの移籍を決意した。約5年の歳月をかけ身に着けた守備を武器に携えた北川が、再び攻撃に焦点を合わせて勝負しようとINACへ身を移した結果、なでしこジャパンへの道が開かれた。1つずつ自分の弱点とストイックに向き合い、クリアしてきた彼女が再び大きな課題を手にした。
夢の舞台だったオリンピックへの初めての挑戦は、怪我に苦しめられ、守備の手応えと脆さの両面を見ることになった。苦々しさは残るだろうが、それだけではないはずだ。「自分もピッチで戦っているみたいにアドレナリンが出て眠れなかった」と興奮気味に語っていたブラジル戦。チームとして戦う醍醐味も感じたはず。アメリカの猛攻を全員で凌ぎ続けた事実もある。その上に注がれた課題はただ苦いだけのものではなく、北川がまたこの舞台に戻ってくるための1つの試練だ。まだ27歳。頂上を目指す時間は十分にある。
(早草紀子 / Noriko Hayakusa)
早草紀子
はやくさ・のりこ/兵庫県神戸市生まれ。東京工芸短大写真技術科卒業。在学中のJリーグ元年からサポーターズマガジンでサッカーを撮り始め、1994年よりフリーランスとしてサッカー専門誌などへ寄稿。96年から日本女子サッカーリーグのオフィシャルフォトグラファーとなり、女子サッカー報道の先駆者として執筆など幅広く活動する。2005年からは大宮アルディージャのオフィシャルフォトグラファーも務めている。日本スポーツプレス協会会員、国際スポーツプレス協会会員。