「正直もう入るわけない」五輪直前に“鹿島構想外” 23歳が陥った運命…移籍決断の舞台裏【コラム】
大岩監督からも信頼されていた松村優太は東京ヴェルディへ
久保建英(レアル・ソシエダ)や鈴木唯人(ブレンビー)らパリ五輪世代のトップ選手を呼べず、オーバーエイジ(OA)枠も使えなかったことで、大会前は悲観論があちこちで聞かれた大岩ジャパン。
ところが、ふたを開けてみると、日本は7月24日(日本時間25日未明)の初戦・パラグアイ戦(ボルドー)を5-0で圧勝。続く27日(同28日早朝)のマリ戦、30日(同31日早朝)のイスラエル戦もそれぞれ1-0で勝利。勝ち点9を奪ってグループ1位で決勝トーナメントに進出。2日(同3日0時)の準々決勝では宿敵・スペインに挑むことになった。
そんな仲間たちの快進撃を日本から見つめているU-23日本代表落選組は少なくない。その筆頭が6月のアメリカ遠征に帯同していた松村優太(東京ヴェルディ)。2023年までは大岩剛監督から常連メンバーの1人と位置付けられていたドリブラーである。
ご存知の通り、2020年1月の高校サッカー選手権で全国制覇した静岡学園のエースナンバー10は同年、満を持して鹿島アントラーズ入り。同じタイミングで入団した荒木遼太郎(FC東京)、染野唯月(東京V)とともに「近未来の鹿島を背負う逸材」と位置づけられた。
同期フィールドプレーヤー3人の中で最初に抜け出したのが荒木。プロ2年目の2021年にはシーズン2ケタ得点を奪い、森保一監督率いる日本代表候補合宿にも呼ばれたほどだった。親友かつライバルの姿を目の当たりにしながら、松村はタテへの推進力に磨きをかけ、トップ下や左サイドなど多彩なポジションでプレーの幅を広げた。その結果、プロ4年目の2023年は20試合出場2ゴールと足踏み状態だった荒木を上回る数字を残したのだ。
同年には染野も2度目の東京Vへのレンタル移籍で悲願のJ1昇格に貢献。3人の状況は三者三様だったが、この時点で最もパリ五輪に近かったのは紛れもなく松村。2023年アジア大会(杭州)で関根大輝(柏レイソル)や佐藤恵允(ブレーメン)らとチームをけん引し、11月のアルゼンチン戦(清水)にも出場しており、大岩監督も個の打開力を高く評価していたからだ。
迎えた2024年。染野がヴェルディへのレンタルを延長し、荒木がFC東京で再起を図る決断をする中、松村は「自分が中心となって鹿島を優勝させる」という強い覚悟を持って5年目に突入した。
だが、新指揮官のランコ・ポポヴィッチ監督がやってくると、いきなり主力組を外された。本人も「何が起きたのか分からなかった」と戸惑いを覚えたが、宮崎キャンプが終わり、開幕を迎えても序列が変わる気配はない。2024年最大のターゲットだった五輪は刻一刻と近づいているのに、試合に出られなければ代表からも外される……。それも分かっていただけに、何とか現状を変えるべく、必死にもがき続けたのだ。
皮肉にも荒木と染野はそれぞれの所属で結果を出し、3月の代表活動に呼ばれた。そして荒木は最終予選に滑り込みを果たし、ついには本大会行きも射止めた。同期の華々しい活躍は嬉しく感じる部分もあっただろうが、松村が自分の運命を呪いたくなったとしても不思議はなかった。
こうなると何かを変えるしかなくなる。松村は7月の中断期間に突入すると、染野のいるヴェルディへのレンタル移籍を決断。ついに鹿島を離れたのである。
「松村優太としては鹿島を出たくなかったですけど、イチ選手としては出るべきだと考えました。まあ悩みましたよ……。もちろん初めてだし、いろんな人の話も聞きながら、経験聞きながら。ここ(ヴェルディ)だけじゃなくていろんなチームもありましたしね。そういう中で決めたのは、城福(浩)監督と話した中で、一番成長できると思ったから。それが決め手です。自分が鹿島を出て落ち着くために行くわけじゃないし、スカスカのチームで確実に出番があるという状況でもない。このチームならよさを出せると思って決断しました」
7月28日のブライトンとの親善試合に後半45分間出場し、新天地デビューを飾った後、松村は偽らざる胸中を吐露した。
確かにヴェルディなら染野や林尚輝という鹿島で共闘したメンバーがいるし、同じくレンタルで赴いている山田楓喜、木村勇大といった面々もいる。彼らが城福監督の下で目覚ましい成長を遂げているのを見れば、松村も「ここで出直したい」と考えるのも頷ける。
ブライトン戦では3-4-2-1のウイングバックと右シャドーの2つのポジションに入ったが、前者であれば松橋優安、稲見哲行といったライバルがいるし、山田や染野と競わなければいけない。それは鹿島にいる時と同等のハードルの高さだろう。ここでコンディションを短期間で引き上げ、圧倒的な存在感を見せつけない限り、鹿島復帰も海外移籍も叶わないだろう。
この半年間でどこまで自分自身を変えられるのか……。松村はキャリアを賭けたチャレンジに打って出ようとしているに違いない。
「試合自体をこなしたのはアメリカ遠征の非公開試合以来。2か月近く経っていますね。その一発目がブライトンだったので、インテンシティーも強度も高かった。でもそこはもっともっと上がると思うし、上下動だったり、前からボールを刈り取るといった良さも出せるようになる。チームのタスクを吸収して、自分の良さを出していけば、かなりハマるんじゃないかと個人的にも感じています」と再出発した背番号47は目をギラつかせた。
ブライトン戦で三笘のプレーから刺激
心機一転、出直しを図ったタイミングで、同じウイングプレーヤー・三笘薫の一挙手一投足を目の当たりにできたのは、大きな刺激になったはずだ。
「(三笘選手は)行くところ行かないところがうまいですよね。行くところは行くし、行かない時には中につけてもぐりこんだり、つねに斜め裏も狙っていたし、危ないシーンも数多く作っていた。駆け引きやもらう位置も巧みで、自分の能力を一番発揮しやすくしているので、本当にハイレベルだと思いました。やっぱり自分のプレーに絶対的な自信があるんでしょうね。どんな選手もムリなことや苦手なこと、しんどいことをやると肩に力が入ったりしますけど、すごくリラックスしているから。相手がどういうプレーをされたら一番嫌なのかが全部わかっている気がします」
松村も城福監督の下で三笘のように自然体を貫きながら、推進力や打開力、攻守のダイナミックさを発揮できるようになれれば理想的。五輪落選という悔しい経験を糧にして、ここから突き抜けていくしかないのだ。
「五輪に関しては、『正直、もう入るわけないだろう』と思っていた。どうせ落ちるなら納得いくプレーをして落ちたかったという本音はありますけど、それは自分の力不足だから仕方ない。今、一緒にやってきた仲間が決勝トーナメントを決めたのは心から嬉しいことだし、この先も頑張ってもらいたい。僕は応援しつつ、今、できることにフォーカスするだけ。ここから先のキャリアも長いし、ヴェルディのために活躍することに目を向けて、まずはやりたいなと思います」
過去にも大迫勇也(神戸)、柴崎岳(鹿島)、鎌田大地(クリスタル・パレス)のように五輪落選を糧にA代表の主力に上り詰め、ワールドカップに参戦した先人が数多くいる。松村にもその領域を目指してもらいたい。
同じ落選組の染野や木村、バングーナガンデ佳史扶(FC東京)らの巻き返しにも期待しつつ、Jリーグ後半戦をチェックしたいものである。
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)
元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。