五輪サッカーに生まれた「謎ルール」 ガラガラな観客席を杞憂…企てた「人気選手の参加」【コラム】
【連載:五輪とサッカー】オーバーエイジが採用された背景に焦点
1900年の第2回パリ大会で正式競技に採用されたサッカーは、参加選手資格を変えながらも「特異な存在」として続いてきた。「世界最高峰の大会」の中での「世界最高峰ではない競技」。国際サッカー連盟(FIFA)と国際オリンピック委員会(IOC)の関係から五輪サッカーを考える連載を5回にわたってお届けする。第3回はオーバーエイジが採用された背景について。(文=荻島弘一)
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初めて「23歳以下」で行われた1992年バルセロナ大会は、地元スペインが初の金メダルに輝いた。ジョゼップ・グアルディオラ、ルイス・エンリケ、キコらのちにA代表でも活躍するスター選手を擁した優勝に地元のファンは盛り上がったものの、全体的に見れば大会のサッカー競技は低調。観客動員への影響は明らかで、32試合中半分以上が数千人とスタンドはガラガラだった。
サッカーは五輪にとって「大きな収入源」。スタジアムの収容人員が大きいこともあって、毎大会全観客数の3分の1はサッカーが占める。ところが、年齢制限を付けたことで、サッカー競技への注目度が暴落。これまでも年齢制限に反発していたIOCは、FIFAにルールの見直しを迫った。
再び「世界最高選手の出場で五輪の価値を高める」ために制限を撤廃したいIOCと「世界最高峰の大会としてW杯の価値を守る」ために制限を続けたいFIFAが対立。出場資格についての議論が繰り返されるなかで、妥協案として生まれたのが「オーバーエイジ(OA)」だった。
96年アトランタ大会からの新ルールは「23歳以下」の選手で構成される各国のチームに、年齢無制限選手(OA)を3人までを加えていいというもの。認められるのは本大会のみで、予選は変わらず23歳以下のみ。今となっては当たり前のルールだが、採用が決まった当時はすいぶんと中途半端な「謎ルール」にも思えた。
IOCが望んだのは「人気選手の五輪参加」。世界的な知名度もない若い選手だけの大会では、観客動員や高視聴率は見込めない。人気選手を五輪に出場させるために設けたのが、年齢制限のあるほかの大会では考えられない「OA枠」だ。
24歳以上の選手が入ることによって、各チームの戦力がアップし、大会全体のレベルも上がるとされた。もっとも、IOCにとっては、競技レベルなど問題外。最大の目的は、観客が呼べ、視聴率にもつながるスター選手の五輪参加だった。
当初はOA採用に積極的でなかったFIFAが、IOCの強硬な姿勢に折れた形だ。IOCとの関係をこじらせたくなかったのかもしれない。96年アトランタ大会から、女子競技の実施を目指していたからだ。
女子サッカーの五輪採用なければ、OA枠の誕生がなかった可能性も
普及のために91年から女子W杯をスタートさせたFIFAだが、世界的な認知度は今ひとつだった。ほかのマイナー競技と同じように、五輪で実施されれば注目度も増す。IOCが「アジェンダ2020」を制して男女平等を目指すようになったのは2014年から。90年代は女子採用に今ほど積極的ではなかったから、女子は「五輪に入れてもらう」存在だった。
FIFAの目指した「女子競技の五輪実施」とIOCが求める「男子のOA枠採用」は、ともに96年アトランタ大会から。一見すると無関係に見えるが、水面下では激しい駆け引きがあったはず。仮に女子の採用がなければ、今もOAという「謎ルール」はないかもしれない。
96年アトランタ大会、日本は「チームの統一性」を重視して23歳以下の選手だけで出場。スペイン、フランスなどの欧州勢もOA枠は使わなかった。それでも、日本に敗れたブラジルはリバウド、ベベット、アウダイールとA代表でも活躍する3選手が出場。金メダルのナイジェリアも、銀のアルゼンチンも24歳以上の選手が活躍した。
IOCの思惑どおりに多くの国がOAとしてスター選手を出場させた。日本は「チームの統一性がなくなる」として23歳以下の選手だけで臨んだが、初戦で日本に敗れたブラジルはリバウド、ベベット、アウダイールとA代表でも活躍する3選手を招集した。
OAの効果か、スタンドは1次リーグの試合から大入り。94年W杯米国大会でも活躍した選手も多く、サッカー競技は盛り上がった。「23歳以下+OA 3人」は成功。結局、これが30年近く五輪サッカーのスタンダードとして続くことになった。
(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。