「23歳以下」は“妥協の産物” 五輪のなぜ…IOCとFIFAの思惑が衝突したサッカーの規定【コラム】
【連載:五輪とサッカー】初登場は第2回の1900年パリ大会…当時プロは参加できず
パリ五輪のサッカー競技が開会式よりも早く、7月24日にスタートする。1900年の第2回パリ大会で正式競技に採用されたサッカーは、参加選手資格を変えながらも「特異な存在」として続いてきた。「世界最高峰の大会」の中での「世界最高峰ではない競技」。国際サッカー連盟(FIFA)と国際オリンピック委員会(IOC)の関係から五輪サッカーを考える連載を5回にわたってお届けする。第2回はなぜ23歳以下なのか、だ。(文=荻島弘一)
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五輪サッカーに「23歳以下」という年齢制限が設けられたのは、1992年のバルセロナ大会からだ。体操は男子18歳以上、女子16歳以上、水泳の飛び込みは15歳以上など下限を決めている競技は多いものの、上限があるのは19~40歳という制限のあるボクシングを除けばサッカーだけだ。
IOCは五輪参加選手に年齢制限は設けていない。制限しているのは、各競技の国際競技団体(IF)。多くは選手の安全面を考慮してIFが決め、IOCが承認して年齢制限が決まる。「23歳以下」もFIFAが決めて、IOCが承認したもの。選手の安全面とは関係のない中途半端な年齢制限が生まれた背景には、FIFAとIOCの100年以上にも及ぶ長い歴史がある。
五輪にサッカー競技が登場したのは第2回の1900年パリ大会から。五輪は当初から「アマチュア主義」で、出場資格はアマチュアであること。当時、すでに欧州で誕生していたプロ選手は参加できなかった。
1904年にパリで創立されたFIFAは当初、アマチュア選手のみの五輪を「世界一決定戦」としていたが、プロ選手の台頭を受けて30年にプロも参加できるワールドカップ(W杯)をスタート。開催国には、24年パリ大会と28年アムステルダム大会で五輪連覇したウルグアイが選ばれた。
IOCのアマチュア主義と決別し、五輪から去った競技もある。1896年の第1回大会から行われていたテニスは、参加資格を巡って国際テニス連盟とIOCが対立。1924年パリ大会を最後に五輪実施競技から外れた(88年に復活)。しかし、サッカーはFIFAとIOCが参加資格や選手の休業補償問題などで対立しながらも、五輪とW杯で別の道を歩むことを選択した。
サッカーの「プロ解禁」は簡単には進まず
「アマチュア世界一決定戦」の五輪と「プロも含めた世界一決定戦」のW杯。ブラジルやドイツ、イタリアなどがW杯の覇権を争う一方、五輪の優勝チームは52年ヘルシンキ大会から80年モスクワ大会まで、ソ連、チェコスロバキア、東ドイツなど「ステートアマ」の東側諸国が優勝を続けた。
80年代まで「アマチュア主義」だった日本も、重視していたのは五輪だった。64年の東京大会を目指していた代表は62年のW杯予選を棄権している。当時監督だった長沼健氏はのちに「W杯予選に出たら五輪に出られない可能性もあった。プロのW杯は別世界。どうでも良かった」と話していた。
1974年にIOCが五輪憲章から「アマチュア規定」を削除。その後、プロ選手の参加が解禁された。選手の参加資格は各IFが定めることになり、段階的に各競技のプロへも五輪への扉が開かれることになる。
もっとも、サッカーの「プロ解禁」は簡単には進まなかった。IOCは五輪を「世界最高の選手の大会」として「トップ選手の参加」を求めるが、FIFAは「唯一の世界一を決める大会」W杯の権威を守るために拒否。妥協案として「W杯予選と本大会に出場した欧州と南米の選手以外」が80年モスクワ大会からの出場資格となった。
あくまでも「トップ選手の出場」を求めるIOCに対し、FIFAはさらに「23歳以下」という年齢制限を決め、88年ソウル大会から実施するとした。すでにあったU-20(20歳以下)W杯と年齢無制限のW杯の間に、無理やり「23歳以下」という制限を設けたのだ。
IOCの強硬な反対にあって88年大会からの実施は見送られたが、FIFAは制限を見直すことはせず、結局4年後の92年バルセロナ大会から「23歳以下」が正式に採用された。両者の思惑が衝突した末の妥協の産物。日本ではちょうど大学卒業前後の世代で、バルセロナ五輪予選に挑んだ日本代表はプロ選手と大学生が半々というなんとも中途半端なチームだった。
(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。