中村俊輔、カズらとの日常から欧州へ パリ五輪の10番が目指す大先輩を超える存在
【大岩ジャパン18人の肖像】FW斉藤光毅(スパルタ・ロッテルダム)は手術・リハビリを乗り越えパリ五輪へ
大岩剛監督率いるU-23日本代表は、今夏のパリ五輪で1968年メキシコ五輪以来、56年ぶりのメダル獲得を狙う。4位でメダルにあと一歩届かなかった東京五輪から3年、希望を託された大岩ジャパンの選ばれし18名のキャラクターを紐解くべく、各選手の「肖像」に迫る。
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横浜FCアカデミー育ちの斉藤光毅は2018年、16歳の若さでJ2デビューを果たし、一つ上の世代に混じって19年のU-20ワールドカップ(W杯/ポーランド)のメンバーに選ばれ、グループステージ3試合でプレーした。1学年下の三戸舜介(アルビレックス新潟→スパルタ・ロッテルダム)が「僕が中学・高校のときには『あ、斉藤光毅だ!』みたいな遠い存在の人でした」と振り返るくらい、ドリブラーの斉藤は輝く存在であり、世代のフロントランナーだった。
「CL(UEFAチャンピオンズリーグ)の決勝戦でゴールを決めたい。そのことから逆算してロンメル(ベルギー/シティグループ傘下)からステップアップしていくのが近道だと思った」という斉藤は21年1月、ベルギー2部リーグで欧州挑戦をスタートすることにした。しかし、ロンメルに入って半年間はチカラを出しきれず悩んだ。しかも当時はコロナの影響でレストランも開いてない。
「練習が終わると午後が暇になりすぎて、壁当てとか1人でサッカーしていました。イメージ通りにいかないと『うわあっ!』て叫んでいました。日本との時差があるので電話もかけづらかった」
それでも2季目の21-22シーズンに斉藤は主力の座を勝ち取った。翌季、斉藤はロンメルから貸し出される形でスパルタ・ロッテルダム(オランダ)に移籍した。
スパルタでのデビューマッチでいきなり“ゾーン”に入った斉藤は切れ味鋭いドリブルから2アシストを記録する最高のスタートを切り、サポーターを虜にした。しかし、ここでもシーズン前半戦は調子の波が大きく、能力を存分に発揮しきれなかった。
転機はウインターブレークの合宿中、マウリス・スタイン監督(当時)との面談だった。「なにか言いたいことはあるか?」と訊かれた斉藤は「もっとゴール&アシストといった結果を残さないといけないと思っているんです」と言った。この時点で斉藤は3アシスト。ゴールは無かった。そんな斉藤に対し、スタイン監督はこう諭した。
「そんなに気負うな。まずはチームのために君のストロングポイントを出しなさい。やるべきことをやれば、私は評価するから。そうしたら自ずと結果も付いてくる」
斉藤は「エンジンを全開で吹かして空回りしていたのが、監督の言葉で少し気が楽になりました」と振り返る。斉藤は後半戦だけで7ゴールを固め取りし、シーズン得点7、アシスト5とともにキャリアハイを記録した。
翌季もスパルタに残った斉藤は23年10月、ドリブル中に相手に倒されて負傷してしまった。手術・リハビリに4か月かかり、復帰したのは24年1月末のこと。そのため出場試合はわずか22試合にとどまり、3ゴール5アシストと結果も伸びなかったが、ドリブルに凄みが増した。
3月のエクセルシオール戦では背中で相手をブロックしながら反転してドリブルを開始し、さらに敵を股抜きしてからラストパスを通す幻想的なビッグプレーを披露。完全復活を印象付けた。
驚くべきは実働半年余りのシーズンだったにも関わらず、全国紙「アルヘメーン・ダッハブラット」選出の年間ベストイレブンに輝いたこと。旬の季節を迎えた斉藤が、パリ行きの切符を手にしたのも必然だった。
オランダで思い起こすのはFC横浜で三浦知良、中村俊輔、松井大輔、南雄太といったレジェンドたちと過ごした日々。
「選手によって個性が違うし、1人1人の正解は違う。だから先輩たちを参考しながら、自分なりにその正解を探して、“斉藤光毅の物語”をちゃんと作っていきたい」
パリ五輪代表では10番を背負う斉藤。金メダルをかけた決勝戦は8月10日、彼の23歳のバースデーである。
(中田 徹 / Toru Nakata)
中田 徹
なかた・とおる/1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグなどを現地取材、リポートしている。