J1元韓国代表GKが貫く日本愛 驚異のPKストップ率…窮地を救う守護神の“気迫”【コラム】
京都のク・ソンユンは湘南戦で絶体絶命のピンチを救った
キッカーのデータは脳裏にインプットしていた。それでも、予想よりも高いコースへ強烈な一撃が飛んできた。次の瞬間、京都サンガF.C.の守護神、元韓国代表GKク・ソンユンはダイブしながら、とっさに左腕を上へ伸ばした。
湘南ベルマーレのホーム、レモンガススタジアム平塚に乗り込んだ6月30日のJ1リーグ第21節。キックオフ前の時点で、18位の湘南に対して京都は19位。勝ち点差がわずか1ポイントという状況で迎えたシックスポイントマッチは、京都が1点をリードしていた後半8分に最大のヤマ場を迎えていた。
湘南がPKを獲得した場面で、キッカーのFW福田翔生がボールをセットする。ク・ソンユンはこのとき、富永康博キーパーコーチから試合前に伝えられていた、福田に関する情報を必死に呼び起こしていた。
5月25日のジュビロ磐田との第16節の前半29分に、福田はゴール右隅にPKを決めている。今シーズンから磐田の守護神を務める、元日本代表の川島永嗣が一歩も動けなかった一撃。もっとも、このときはゴール左を狙ったPKを川島に阻止されたが、川島がゴールラインよりも前へ出ていたとして蹴り直しになっていた。
止められたものの、絶対的な自信を抱いているからこそ最初に左へ蹴った。福田のデータや思考回路を脳裏にインプットしながら、それでいてク・ソンユンは助走してくる福田の一挙手一投足を注視した。
「もちろん試合前に映像を見て分析しますけど、実際に試合へ入って、ピッチの上でどのような感じなのかが一番重要なので。絶対に止めるという自信と勇気を持ちながら、最後の最後まで相手キッカーの蹴る姿勢やボールのコースを見るようにしたのが良かったし、そのおかげで止められたと思っています」
事前の読みと一瞬の判断が完璧に一致したからこそ、自身から見て右へ迷わずダイブした。もっとも、磐田戦で止められたPKよりもコースが高い。宙を舞いながら、身体から離した左手を敵地の夜空へ伸ばした。グローブ越しにボールを弾き返した感触が伝わってくる。今度は右手を突き上げながら、ク・ソンユンは雄叫びをあげた。
守護神に感謝の思いを伝えようと、真っ先に駆け寄ってきたFW一美和成が声を弾ませる。
「自分のハンドと、その前のミスでピンチを招いてしまったので。ソンユンくんには頭が上がらないですね」
後半5分に自陣の左サイドで獲得したスローイン。DF三竿雄人から託されたボールを奪われた直後に、湘南の波状攻撃を浴びた。2本のシュートをブロックで防いだが、なおもMF茨田陽生がペナルティーエリア内の右奥をえぐってくる。クロスをあげさせてなるものかと、必死に追走した一美がブロックに飛び込んだ。
しかし、宙を舞いながら背中でボールを弾き返そうとした一美の左手が、身体から離れてしまった。さらに、その左手をボールが直撃する。池内明彦主審はそのまま試合を継続させようとしたが、ここでVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)が介入。やり取りを交わした直後に、池内主審はピッチ脇のモニターへ向かった。
OFR(オンフィールド・レビュー)を経て、判定がPKへと変更される。一美は「ボールが当たったのはわかったけど、(そこまで)左手は離れていなかったというか、どうなのかな、という感じだったんですけど……」と複雑な思いを交錯させる。このとき、ク・ソンユンは最悪の事態を想定して、すでに集中力を研ぎ澄ませていた。
「イチ(一美)の腕に当たった瞬間に、これはハンドになるかもしれない、と思っていた。(PKになってからは)みんなが自分のことを本当に信じてくれたので、あのようなセーブができたと思っています」
22歳にして京都のキャプテンを務める、パリ五輪世代のMF川﨑颯太は周囲へ大声をかけていた。
「ソンユンくんなら絶対に止めてくれると信じていたので、僕たちは先に(ペナルティーエリア内へ)入らないようにするとか、そういうところに気を付けようと。僕たちができることをやろうと思っていたので」
ク・ソンユンが弾いたボールはペナルティーエリア内に弾んだが、真っ先に近づいたMF松田天馬が必死にクリアした。しかし、再びVARが介入し、福田のキックよりも早く京都の選手がエリア内へ入ったかどうかを確認している。ここは問題なしとされたが、それだけギリギリのタイミングで守護神の美技に応えた。
「ソンユンくんのパフォーマンスに対してはみんながありがたいと思っているし、ここまで本当に何回も助けてくれた。今日こそは自分たちも集中力を高めて、ゼロで抑えて勝利を届けなきゃいけないと思っていたので」
川﨑が声を弾ませたように、ク・ソンユンのPKストップは今シーズンだけですでに3度を数えている。
背番号は「94」…空き番「1」を背負わないのは
最初は4月7日の磐田戦の前半終了間際。真ん中へ蹴り込んできたFWマテウス・ペイショットのPKを、身体を左へダイブさせながらも必死に残した左足でク・ソンユンが弾き返した。この時点でスコアは0-0。ホームのサンガスタジアム by KYOCERAを熱狂させたシーンだったが、後半に3点を奪われて一敗地にまみれた。
次は敵地ノエビアスタジアム神戸に乗り込んだ、同28日のヴィッセル神戸戦の前半アディショナルタイム。得点王を獲得した昨シーズンに、6本のPKすべてを成功させていたFW大迫勇也がゴール右隅を狙った一撃を、コースを完璧に読み切ったク・ソンユンが最後は左手を思い切り伸ばしてセーブした。
この試合では後半にFW原大智があげた千金の先制ゴールを京都が死守し、連敗を3で止めるとともに昨シーズン王者を撃破している。そして、湘南戦でも原のゴールを守り抜いて京都が1-0で勝利した。
「僕個人に関しては本当に運が良かったというか、みんなが普段から積み重ねている努力が勝ち点3をもぎ取ったと思っている。今日も守備陣だけじゃなくて、自分の前にいるフィールドプレイヤーの10人が本当によく走り、よく守ってくれた。その意味でも、こういう結果を手にできたのは当たり前だと思っている」
神戸戦の再現を問う質問に対して、ク・ソンユンはチームメイトたちへの感謝の思いを何よりも優先させる。ピッチを離れれば謙虚で穏やかな守護神に、京都を率いる曺貴裁監督も思わず目を細める。
「キーパーコーチの富永を含めて相手を分析したものを、ソンユンへ情報としてわたしているのも1つだし、さらに彼は鳥栖戦で自分のスローイングから喫した失点にものすごく責任を感じていた。今日の試合で、あの場面でPKを止めたのもそういった悔しい思いが残っていたからだと思います。気持ちでもすごく上回ってゴールマウスに立っていたはずですけど、それでもこのPKストップは選手たち全員で生み出したものだと思っている」
シーズンの折り返しとなった6月22日のサガン鳥栖戦の後半13分。相手の右コーナーキック(CK)を完璧にキャッチしたク・ソンユンは、素早く立ち上がるや前線のFW豊川雄太へ、体勢を崩しながらもスローイングを選択した。しかし、わずかに短くなったところを鳥栖の選手がカット。すかさず発動されたカウンターから先制点を奪われた。
最終的には0-3で完敗した試合後。スローイングの際に相手と接触してつまずいたのか、と問われたク・ソンユンは「それもサッカーの1つの要素」という言葉とともに、気持ちの切り替えを強調していた。
「あれが失点につながったのは悔しいけど、それ(接触)のせいにはしたくない」
日本サッカー界との縁は長く、そして深い。韓国・在鉉高時代のプレーが見初められる形で、18歳になった直後の2012年7月にセレッソ大阪のアカデミーに加入。セレッソのトップチームをへて、2015シーズンに加入した当時J2のコンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)で頭角を現した。
リオ五輪に臨んだU-23韓国代表のゴールマウスを守った2016シーズンのオフには、鹿島アントラーズからオファーを受けるも固辞。翌2017シーズンからJ1へ挑む札幌でのプレーを優先させ、兵役義務に伴って母国・韓国で約2年半プレーした後も、札幌への愛を貫く形で2022年10月に復帰した。
しかし、ベテランのGK菅野孝憲の牙城をなかなか崩せない。出場機会を優先させ、昨夏に京都への期限付き移籍を決意したク・ソンユンは今シーズンから完全移籍に切り替え、湘南戦直前の6月27日に30歳になった。
京都と契約した昨夏。Jリーグが「51番」から「99番」までの背番号を解禁していたなかで、ク・ソンユンは自ら希望して「94番」を背負った。キーパーを象徴する背番号の「1番」が空いた今シーズンも、引き続き「94番」で変わっていない。自身が1994年生まれというほかにもうひとつ、意外な理由が込められていた。
「プロになってから『1番』をつけた経験がないんですよ。まあ、特別な理由ではないんですけど」
身長198センチ体重92キロの巨躯に、仲間を思う熱いハートと「1番」を遠慮する謙虚さ、何よりもチームを鼓舞する魂のビッグセーブを搭載する頼れる守護神。30歳になった初戦で零封勝ちを飾り、J1残留を争う湘南との順位を逆転させたク・ソンユンは「中位や上位のチームに対しても、チームにいい結果をもたらせると信じている」と12月8日まで続く戦いを見据えながら、京都の最後の砦になる決意を新たにしている。
藤江直人
ふじえ・なおと/1964年、東京都渋谷区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後に産経新聞社に入社。サンケイスポーツでJリーグ発足前後のサッカー、バルセロナ及びアトランタ両夏季五輪特派員、米ニューヨーク駐在員、角川書店と共同編集で出版されたスポーツ雑誌「Sports Yeah!」編集部勤務などを経て07年からフリーに転身。サッカーを中心に幅広くスポーツの取材を行っている。サッカーのワールドカップは22年のカタール大会を含めて4大会を取材した。