今までの日本代表は伊藤洋輝を使い切れていなかった バイエルン移籍に”値する”裏付け【前園真聖コラム】
バイエルンが伊藤に目を付けるのも当然
6月11日に行われた北中米ワールドカップ(W杯)アジア2次予選最終節の日本対シリアに後半から出場した伊藤洋輝は、その3日後に大きなニュースの主役になった。ドイツサッカーの名門中の名門、バイエルン・ミュンヘンへの移籍が決まったのだ。ヨーロッパのトップクラブに認められた伊藤だが、不思議なことにこれまでの日本代表では先発に定着したとは言えない。なぜこのような現象が起きているのか。元日本代表MF前園真聖氏に解説してもらった。(取材・構成=森雅史)
◇ ◇ ◇
伊藤洋輝のバイエルン・ミュンヘン入りが発表されました。2028年6月30日までの4年契約、シュツットガルトに支払われる移籍金は約50億円という大型契約で、本人の年俸も約10億円と噂されています。伊藤はドイツでプレーするなかで評価を高め、ビッグクラブへの道を切り開きました。
2021年にシュツットガルトに加入したあと、伊藤は不動のレギュラーにはなったものの、苦しい経験を積んだと思います。2021-22シーズンは最終節のケルン戦でコーナーキックからヘディングで遠藤航(リバプール/イングランド)の決勝点をアシストしました。この1点でシュツットガルトはなんとかブンデスリーガ1部残留を決めることができました。
2022-23シーズンも残留争いに巻き込まれ、最後は16位でプレーオフに回り、ブンデスリーガ2部3位のハンブルガーを下してなんとか踏みとどまることができました。毎年の胃が痛くなるような経験は伊藤を成長させたことだと思います。
そして、2023-24シーズンは遠藤らが抜けたものの、見事に選手たちが噛み合い、過去の不振を吹き飛ばしました。優勝したレバークーゼンには差を付けられたものの、それでも2位になり、来シーズンのチャンピオンズリーグ(CL)出場権を獲得しています。
その前のシーズンまで11連覇という圧倒的な強さを誇っていたバイエルンは勝ち点1の差を付けられ、シュツットガルトの下の3位になったのです。シュツットガルトで左サイドを支えていた伊藤が目を付けられたとしても当然だったと言えます。
シリア戦で見えた伊藤の良さ
シュツットガルトで見せている伊藤の良さにはいろいろな部分があります。昨シーズンのシュツットガルトは基本的に4バックで、その左サイドバックに加えて左センターバックもこなしました。さらに3バックの左DFとしてもプレーできます。そこからの的確なフィードや対角線上の前線めがけたロングボールがチームのアクセントを作りますし、セットプレーでの高さも武器になっています。
その一方で、日本代表での伊藤はずっと完全にレギュラーとは言い切れない立場でした。2022年のカタール・ワールドカップ(W杯)の時は左サイドバックで、自分の前にいる三笘薫(ブライトン/イングランド)へのパスがなかなか付けられず、安全にバックパスを選択していたので積極性が足りないという評判になってしまいました。
ただ、これはチームの戦い方が伊藤の良さを引き出すためのものではなかったからです。三笘にしろ、そして今活躍している中村敬斗(スタッド・ランス/フランス)にしても、ボールを預けると個人で突破して行ってくれます。そのため伊藤は前の選手にスペースを与えるためにオーバーラップを控え、そのうしろでしっかりと守備を固めるという役に徹していました。
伊藤がもっと多くのプレーに関わることができるのは、シリア戦でも証明されました。後半40分、相馬勇気がペナルティエリアの横でボールを奪われ、シリアは反撃に移ろうと縦パスを出しました。そこに一瞬の判断の良さで伊藤がペナルティエリア付近まで飛び出してインターセプトしたのです。
伊藤がそのまま南野拓実にボールを預けると、南野はゴールに蹴り込んで日本の5点目を奪っています。南野に注目が集まりましたが、実は伊藤の良さが出た場面でした。
こういう場面から考えると、ここまで日本代表では伊藤の良さを生かし切れなかったと言えるかもしれません。しかし、ここに来て状況は変わりかけています。日本代表が3バックにより長く取り組むようになりました。そのことで3バックの左に入る伊藤がより個性を生かせる可能性が高くなったのです。
チーム全体でどうやってビルドアップするか考えていくなかで、伊藤の左足は重要な役割を果たすでしょう。ロングキックを生かしつつ、攻撃参加していく姿が見られるものだと思います。伊藤はバイエルンでさらに磨かれるでしょうから、その実力が森保一監督によってどう生かされていくのか、今後さらに楽しみになってきました。
(前園真聖 / Maezono Masakiyo)
前園真聖
まえぞの・まさきよ/1973年生まれ、鹿児島県出身。92年に鹿児島実業高校からJリーグ・横浜フリューゲルスに入団。96年のアトランタ五輪では、ブラジルを破る「マイアミの奇跡」などをチームのキャプテンとして演出した。その後、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)、湘南ベルマーレの国内クラブに加え、ブラジルのサントスFCとゴイアスEC、韓国の安養LGチータースと仁川ユナイテッドの海外クラブでもプレーし、2005年5月19日に現役引退を表明。セカンドキャリアでは解説者としてメディアなどで活動しながら、「ZONOサッカースクール」を主催し、普及活動を行う。09年にはラモス瑠偉監督率いるビーチサッカー日本代表に招集されて現役復帰。同年11月に開催されたUAEドバイでのワールドカップ(W杯)において、チームのベスト8に貢献した。