Jリーグ→欧州…長谷部誠が渡欧する前日談、カカの超人ぶりが飛躍への“野心”に変わった【コラム】
長谷部のドイツ移籍前、クラブW杯で対戦した元ブラジル代表カカの存在感
浦和レッズは2007年、日本勢として初めてAFCアジアチャンピオンズリーグ(ACL)を制する偉業を達成し、クラブワールドカップ(W杯)の出場権も手に入れた。
その一方、ACL優勝から2週間後に行われた第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会では、初戦の4回戦でJ2愛媛FCに0-2の完敗。過密日程をこなしていた53試合目に当たり、門番の田中マルクス闘莉王は「ゲーム数が多くてくたくただよ。いつもなら足が伸びる場面でも、今日は伸びなかった」と消沈した。
さらにこの3日後、J2陥落が決まっていた横浜FCとの最終戦にも敗れ、リーグ2連覇を逃してしまう。優勝へのカウントダウンが始まった第30節から3分2敗と足踏みし、猛追してきた鹿島アントラーズに逆転優勝されたのだ。
このシーズンをもってドイツに渡った長谷部誠の言葉には、無念さだけが詰め込まれていた。
「何で優勝できなかったのかな。もう本当に情けなくて……。疲れていたけど体力のことは言い訳にならない。今は何も考えられないし、ただただ情けないだけ。この負けは一生忘れない。クラブW杯への意気込み? そう簡単に切り替えられるものじゃない」
この年の5月、長谷部にはイタリア1部のシエナから獲得の申し出があった。しかしクラブの藤口光紀社長とホルガー・オジェック監督は、リーグ連覇とACL制覇に欠かせないキーマンとし、残留工作に身を砕いて夏の移籍を回避させた。
2002年に静岡の古豪・藤枝東高から加入した長谷部は、6年目の07年が契約更新のタイミングに当たり、身の処し方に耳目が集まった。
シエナが浮上してから、半年以上も移籍に関する話題を聞かなくなったので、クラブW杯初戦に向けた12月5日の練習後、私は去就について尋ねてみた。「契約更新の紙はもらっていますが、まだ何も決まっていないんですよ。これからクラブと話そうと思う。自分にはまだまだいろんな可能性があるし、選手として目指す方向をよく考えてから決めたい。もちろん海外で挑戦したい気持ちは強い」と正直な胸の内を明かした。
ただこう話してはいたが、この時点で欧州移籍はほぼ決まっていた。
ACミランと対戦、カカのお膳立てからセードルフが決勝弾
浦和で残された試合はクラブW杯だけだ。ACL決勝を争ったセパハン(イラン)との初戦の準々決勝を3-1で勝ち抜き、準決勝で欧州王者ACミラン(イタリア)との夢の顔合わせが実現した。
トップ下で先発した長谷部は、旺盛にボールを引き出してはスルーパスを配給し、前半7分と追加タイムにいずれも威力のある中距離弾を放った。
しかし時間の経過とともに世界的名手が勢ぞろいするミランの巧さ、速さ、強さに驚嘆させられる。なかでも2006~07年の最優秀選手賞、“バロンドール”を受賞したブラジル代表MFカカのスピードには度肝を抜かれたという。
後半23分、アンブロジーニがフリーキック(FK)のボールを素早く左のカカへ預けると、超人的な速さで快足を誇る坪井慶介を抜き去った。セードルフがカカの最終パスを左足ダイレクトで合わせ、決勝点を蹴り込んだのだ。
カカはほかにも随所でサッカー界の巨頭ぶりを披露していた。
前半23分、センターサークルからドリブルを開始し、阿部勇樹とネネのマークを造作もなく突破。決勝点の1分前には左の大外で坪井とのスプリント勝負を制し、カバーに入った闘莉王もお置き去りにした。後半39分にも左から進出し、一瞬の速さで坪井をかわしてピルロのシュートに結び付けている。
長谷部は「今までに体感したことのないスピードだった。あのツボさん(坪井)が何度もあっさり振り切られ、いとも簡単に決定的な仕事をされた」と脱帽し、カカのお膳立てから喫した失点には「この1点の重さは5点にも10点にも値する」と言葉をつないだ。
坪井にしても「よーいどん、の駆けっこなら今まで負けない自信があったけど、カカの速さは尋常ではなかった」と舌を巻いたものだ。
翌日のクールダウン後、私は長谷部と突っ込んだ話をした。
この時もカカに対する所感が多く、「あのドリブルとスピードはすごかった。あんなに大きい(186センチ)のに速い。緩急の付け方も上手く、あれだけのスピードは日本人には感じたことがない」と一夜明けても、興奮と衝撃は収まっていなかった。
肝心の身の振り方については、まどろっこしい聞き方をしてみた。
「欧州に行ったら強豪チームばかり? そうですよね、今回ミランと直に戦って個人の能力に大きな差を感じた。巧いし強い。(欧州でやる時の)参考になる部分はあった。強いチームと対戦していけば(欧州リーグへの)慣れも出てくるはず。やれないことはないと思った」
ミラン戦の前半15分、軽やかにドリブルで運んでいたら、巧みに身体を入れてきたガットゥーゾに球を奪われた。「ああいう守備の強さと巧さも身に付けないといけない」とも言った。本職のボランチで大成するための手本にしたのかもしれない。
世界のすご腕と出会って力不足を痛感し、同時に「もっと上手くなりたい」という闘争心をたぎらせた。それがカカでありミラン戦だった。
2008年1月24日、ドイツ1部リーグのヴォルフスブルクへの完全移籍が発表された。
ポンテにも認められた長谷部の“闘争心”
ACLの1次リーグと日中韓3チームで争ったA3チャンピオンズカップが、2007年の上半期にあった。
その年の6月27日、浦和のロブソン・ポンテにA3での経験をはじめ、ACL決勝トーナメントなどについて長い時間取材した。そのなかで「ACL優勝には何が必要か?」と尋ねると「みんなテクニックもスピードもパワーもあるが、勝とうという気持ちだけが足りない。でも長谷部にはその強い気持ちがある。負けると本当に悔しがり怒っている」と才気煥発な若手の名を挙げたのだ。
元々レーバークーゼン(ドイツ)の司令塔だったポンテは、07年のJリーグ最優秀選手賞に輝いたブラジル人だ。そんな名人に唯一認められたのが若き日の長谷部だった。
ドイツの3クラブで16シーズン半プレーした長谷部は、この5月に40歳で現役を退いた。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。