「髭を剃らせろ」…Jブラジル人監督「お安い御用」と衝撃変貌、日本人と“馬が合った”英雄【コラム】

鹿島を2度率いたトニーニョ・セレーゾ監督【写真:産経新聞社】
鹿島を2度率いたトニーニョ・セレーゾ監督【写真:産経新聞社】

Jリーグ史上初シーズン3冠を成し遂げたブラジル人指揮官の回顧録

 2000年に鹿島アントラーズの監督に就任するや、Jリーグ史上初となる“シーズン3冠”を成し遂げたトニーニョ・セレーゾ監督は、人間味にあふれる、とてもお茶目な指揮官だった。

 現役時代からその名を世界にとどろかせてきた同監督の功績を改めて語る必要もないだろうが、簡単に触れておこう。母国ブラジルだけではなく、イタリアでのプレー経験も豊富で、キャリア終盤の37歳から在籍したサンパウロ(ブラジル)ではクラブワールドカップ(W杯)の前身にあたるトヨタカップ連覇(1992年、93年)に貢献。長きにわたり、世界の第一線で活躍してきた名ボランチの1人なのだ。

 1982年のスペインW杯ではジーコ、ソクラテス、ファルカンとともに“黄金のカルテット”と称され、大会を大いに盛り上げた。

 現役引退後、指導者として新たなスタートを切り、古巣アトレチコ・ミネイロやヴィトリア(ともにブラジル)での指揮を経て、冒頭のとおり2000年に鹿島に招かれた。以来、6シーズンで5つのタイトル獲得に尽力している。

 だが、こうした華々しい実績を鼻にもかけず、むしろ“愛すべき、いじられキャラ”として鹿島の選手やスタッフ、ファン・サポーターから親しまれていた。

 気さくな指揮官を巡る、微笑ましいエピソードには事欠かない。なかでも傑作なのが「現役時代からたくわえてきた、お気に入りであるはずの口髭が、試合中まではあったはずなのに、試合後、きれいさっぱりと剃られていたこと」だろう。

 2001年1月1日に行われた第80回天皇杯決勝での出来事だった。

 21世紀の幕開けを告げる最初のゲームであり、2000シーズンを締め括るラストゲームであり、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)、Jリーグを制していた鹿島にとって“3冠”が懸かる大一番でもあった。

 試合は、延長前半早々に小笠原満男のスーパーボレーが炸裂し、この瞬間、鹿島が3-2で清水エスパルスを破り、ついに大願成就(当時は延長Vゴール方式)。髭なしで現れたセレーゾ監督は、こんなふうに事の真相を打ち明けた。

「3冠を達成したら“髭を剃らせろ”と選手たちに言われ、思わず約束してしまった。実際に剃られると、口元が何だか寂しいけれど、選手たちは盛り上がっていたし、3冠のお祝いだと思えば、お安い御用だったね(苦笑)」

 試合中、首に白いタオルを巻きながら指揮を執ったり、Jリーグアウォーズの壇上で阿波踊りを披露したり、優勝記念の集合写真を撮影する際、みんなが並んでいる目の前でヘッドスライディングをしてみたり、セレーゾ監督の一挙手一投足に思わず吹き出してしまうことが少なくなかった。

時間のルーズな一面も…「意識を変えてほしい」の声で柔軟に対応

 そんな愛嬌たっぷりの指揮官だが、唯一、時間にルーズなところが玉に瑕だったようだ。チーム編成の統括責任者としてセレーゾ監督を多岐にわたってサポートした鈴木満強化アドバイザー(当時・強化部長)が、こう回想する。

「ブラジル人特有といってしまうと語弊がありますが、時間に対する感覚が本当にアバウトで、のんびりしていましたね。例えば、朝10時から練習を始めるとなったら、日本人選手なら5分間とか10分前にグラウンドに出て、いつスタートしてもいいように準備しています。それが当たり前ですが、セレーゾは10時前にクラブハウスにいてもグラウンドに出ていなかったり、“何しているの?”と思うことがたくさんありました(苦笑)」

 一事が万事、チームの始動当初は、こんなやり取りがしばらく続いたそうだ。

「ある日、10時になってもグラウンドに出ないで、監督室にいたので、“どうしたの? 練習時間じゃないの?”と尋ねると、“今日のトレーニングプランを、もう一度、整理しているところだから、少し待ってくれ”と。さらに“5分、10分、遅れてもそんな大きな問題じゃないないだろう? トレーニングは監督がグラウンドに行ってから始まるものなんだ”と、まったく意に介していませんでした。でも、そんな感覚でいたら日本の選手たちに受け入れられないし、示しもつかない。そこの意識を変えてほしいと、セレーゾに随分言いました」

 決められた時間を守ろうとする日本人、片や時間に鷹揚なブラジル人。国民性や社会性、慣習に違いがあるのだから、まあ、仕方がない。異文化交流におけるあるある……などと笑っていられない。鈴木強化アドバイザーは監督と選手の間に無用な摩擦が生じないよう、信頼関係が崩れないよう、あれこれ腐心したという。

「“セレーゾ監督にブラジルとの交渉事を頼んだので、今日の練習は15分ばかりスタートが遅れるから”と口実をつけたり、何だかんだ取り繕って、チーム内が変な空気にならないように気をつかいました」

 あれだけ時間にルーズだったセレーゾ監督も徐々に意識が変わり、「日本で一番学んだのは“時間を守ることの大切さだ”というまでになっていました」と、鈴木強化アドバイザーは当時を懐かしむ。

「頑固なタイプではなく、考え方が柔軟で、周りに気を配るし、細やかな配慮ができる人。選手が怪我をして入院すると、1人でもお見舞いに行ったりしていました。現役時代から素晴らしい実績を持っている人ですが、自分を大きく見せようといった虚栄心がなく、誰彼かまわず、フランクに接していました。私自身、すごく馬が合ったし、本音で向き合える監督でした」

熱を帯びたトレーニング、のちの主軸選手たちの成長促進へ

 ちなみに、セレーゾ監督の練習時間の長さは、鹿島界隈では有名だった。熱を帯びてくると、いつ終わるのか、先の見えない練習が続いた。これもまた時間に対する概念がちょっぴりアバウトな同監督ならではのエピソードかもしれない。

「ただ、そのおかげで当時、若手だった小笠原(満男)や中田(浩二)、本山(雅志)たちがかなり鍛えられました。彼らがのちにチームの主軸を担うようになっていったのは、セレーゾの指導のおかげでしょう。若手たちを成長させたいという熱意にあふれる監督でしたから」(鈴木強化アドバイザー)

 13年から8シーズンぶりに鹿島の指揮を執ることになったセレーゾ監督は、第5節のセレッソ大阪戦に1-0で勝ち、J1通算100勝目を“最速”で挙げた監督の称号を得ている。J史上初の3冠しかり、記録達成は周囲より一歩先をいっていた。

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