元なでしこ鮫島彩の素顔とサッカー人生 信条を生んだ相棒の存在「だから上手くなりたかった」【コラム】

NACK5スタジアムでの現役ラストマッチ後、感謝を言い残さないように丁寧に言葉を届けた鮫島彩【写真:早草紀子】
NACK5スタジアムでの現役ラストマッチ後、感謝を言い残さないように丁寧に言葉を届けた鮫島彩【写真:早草紀子】

貫いた人生のスタイル…見て見ぬ振りをしない毅然さと「チームのために」の熱さ

 毅然さと配慮、自己鍛錬と傾聴感覚。一見、相反する要素を絶妙な塩梅で合わせ持つのが鮫島彩という人だ。

 鮫島の初めての世界舞台となった2011年の女子ワールドカップ(W杯)で世界一になり、“なでしこジャパン”は世界でも通用する名称となった。驚くべきスピードで環境が変化していくなかでも、彼女のスタンスが変わることはなかったように思う。

 幾度となく話を聞く機会があったが、どれほど苦境に立っていても真摯に言葉を紡いでくれた。時折、悪ふざけも挟まるが、最終的には必ず心からの言葉を残してくれた。芯を食わない質問者には「本当にそう思います?」と切り返している姿を見ることもあった。プロリーグとなってからは、サッカー環境を整えるために、覚悟を持ってチームに苦言を呈することもあった。見て見ぬ振りをしない毅然さを感じながらも、その奥には“チームのために”という熱さも必ず感じ取ることができた。

 鮫島の周りへの配慮は生半可ではない。特に東日本大震災関連のことはその最たるものだ。2011年の未曽有の震災で日本中が沈み切っていたなか、当時東京電力女子サッカー部マリーゼに所属していた鮫島は窮地に立たされていた。関係者はW杯を控えた鮫島のために、サッカーができる環境を懸命に生み出し、彼女のボストン・ブレイカーズ(アメリカ)への移籍が決まった。

 感謝とともに、彼女が抱えた葛藤は相当なものだったはずだ。休部となったマリーゼの移管先がベガルタ仙台へ決まると、ロンドン五輪銀メダル獲得後の鮫島は迷うことなく、ベガルタへの移籍を決める。なでしこリーグ2部からの戦いになることにも気を留めず鮫島が語った「ここからスタートしないと、何も始まらないから」という一言に、計り知れない覚悟を感じたことを覚えている。

 今でも3月を迎えると、鮫島の下には震災についての取材が入ってくる。毎年震災のことを語る時、その表情は一変する。言葉も丁寧に、かつ心境を偽ることなく言葉に込めようとする。それがどのように世に出るかまでも責任を持って見届け、時には修正を要求することもある。こうした姿勢はおそらくこれからも変わることはないだろう。

「このメンバーに送り出してほしい」――大宮アルディージャVENTUSで現役引退を決意した鮫島彩(右)【写真:早草紀子】
「このメンバーに送り出してほしい」――大宮アルディージャVENTUSで現役引退を決意した鮫島彩(右)【写真:早草紀子】

偉大な相棒からの学び「『今の場面、どうしたかった?』と必ず先に聞いてくれた」

 鮫島と言えば、その独特のランニングフォーム。やや内股で、上半身の軸は全くブレることがない。速く走るようには見えないそのフォームで、サッカー人生の筆頭の売りを“スピード”としてきたのだから、いろいろ通例を覆してきたと言える。

 その分負荷がかかり、怪我も避けられない。「キツかった無所属でのリハビリ期」(鮫島)も経験したが、自分の細胞と徹底的に向き合ってきた。大きな怪我につながる前に、身体中の違和感を敏感に察知し、食事管理もお手のもの。「作り置きでですけどね」と本人は言うが、テーブルに上がる品数の多さを聞けば、もう脱帽。料理の腕前はサッカー界でもトップを争うのではないだろうか。これらを含めた自己鍛錬を無理やりにでも楽しそうに取り組むのも実に彼女らしいところだ。

 ピッチ上では、鮫島が貫いてきたことがある。それは決して自分の考えを押し付けないこと。リオデジャネイロ五輪出場を逃し、スタートした高倉麻子監督体制は、経験値から見ても鮫島らの世代が牽引する立場になった。彼女たちは新たなチームを作るにあたり、とにかく下の世代の意見を聞きまくった。その根底にはある人の存在があったからだと鮫島は言う。

「W杯で優勝した時、宮間(あや)さんと左サイドを組ませてもらった。この時、宮間さんは絶対に『今の場面、サメはどうしたかった?』と必ず先に聞いてくれてました。当時の自分は未熟すぎて、宮間さんは常に私のカバーをしてくれていて……私がもっと上手くなれば、宮間さんはもっと絡むことができる。他の人を活かすことができる。だから上手くなりたかった」(鮫島)

 世界を獲ったW杯決勝トーナメント以降、なでしこジャパンがイニシアティブを取れる試合など1つもなかった。常に攻撃の脅威に晒されながらも、宮間&鮫島ラインは楽しそうだった。相手にシュートポジションを取られ、間に合わない場面に遭遇すれば「ギャー!止めて~!」と叫びながら祈る。世界の舞台を無欲で楽しんでいた。この大会で「自分以外の誰かのためにプレーすることの喜びを知りました」と、鮫島はよく振り返っていた。

 偉大な相棒から引き継いだ教えは、最後の所属となった大宮アルディージャVENTUSのチームメイトに余すことなく注がれた。トップカテゴリー未経験者も多かった。“あのなでしこジャパンのサメさん”という憧れも強かった。そんな選手たちに、鮫島は自ら目線を合わせにいった。壁を取っ払い、頭を使わせ、ともに考える。そうして歩みを進めた3シーズンだった。だからこそ、「このメンバーに送り出してほしい」(鮫島)と思えたのだろう。

チームメイトは涙…笑顔のまま引退の言葉「素晴らしいサッカー人生でした!」

 今シーズン、途中交代も含め、すべての試合に出場した。現役最後の試合はもっとも長く在籍した古巣INAC神戸レオネッサというカードにも恵まれた。攻撃では彼女の代名詞であるオーバーラップを試み、守備では相手の動きを見極めながらマイボールに引き込む。その場にいた誰もが「引退するパフォーマンスではない」と思ったに違いない。

 彼女にまつわるエピソードは途切れようもないほど積み上がっている。それでも「やり切れた」と最高の笑顔で言われてしまえば、もう潔く受け止めるしかない。

 引退の挨拶も、感謝を言い残さないように、丁寧に言葉を届けていた鮫島。最後までその笑顔が曇ることはなかった。対照的にそのうしろに並ぶチームメイトの涙は止まらない。改めて、このメンバーに送り出されたいと感じた鮫島の想いに触れた気がした。

「素晴らしいサッカー人生でした!」

 鮫島が笑顔で告げた言葉がすべてなのだろう。応援してくれるサポーターの姿をピッチから見るのが大好きだったというその場面は鮫島がピッチを去る瞬間までNACK5スタジアムに広がっていた。

[プロフィール]
鮫島彩(さめしま・あや)/1987年6月16日生まれ、栃木県出身。河内SCジュベニール―常盤木学園高―TEPCOマリーゼ―ボストン・ブレイカーズ(アメリカ)―モンペリエHSC(フランス)―ベガルタ仙台レディース―INAC神戸レオネッサ―大宮アルディージャVENTUS。豊富な運動量や90分間衰えない走力をベースに、タイミングの良い上がりや球際での強さを披露し、攻守両面で長年活躍。日本代表通算114試合5得点。2011年ドイツW杯優勝、12年ロンドン五輪銀メダル、15年カナダW杯準優勝などに主力として貢献し、日本女子サッカーの発展に尽力した。

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早草紀子

はやくさ・のりこ/兵庫県神戸市生まれ。東京工芸短大写真技術科卒業。在学中のJリーグ元年からサポーターズマガジンでサッカーを撮り始め、1994年よりフリーランスとしてサッカー専門誌などへ寄稿。96年から日本女子サッカーリーグのオフィシャルフォトグラファーとなり、女子サッカー報道の先駆者として執筆など幅広く活動する。2005年からは大宮アルディージャのオフィシャルフォトグラファーも務めている。日本スポーツプレス協会会員、国際スポーツプレス協会会員。

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