中田英寿の頭脳に海外記者脱帽…「普通のレベルではない」 日本人成功者の特異性「視野が広い」【現地発】

ペルージャ時代の中田英寿氏【写真:Getty Images】
ペルージャ時代の中田英寿氏【写真:Getty Images】

ペルージャ時代に取材歴のある現地記者を直撃

 日本サッカー界はこれまで数々の名プレーヤーを輩出してきた。日本代表や欧州クラブで輝かしい実績を残した中田英寿氏はその代表格と言える1人だ。ワールドカップ3大会に出場したレジェンドは早くから世界に目を向け、21歳でイタリア1部セリエAへの挑戦を決断。その後、ワールドクラスの選手へと成長を遂げた。

 2006年夏に29歳で現役を引退した「孤高の天才」は他者の目にどう映ったか。「FOOTBALL ZONE」では改めてこの偉大なフットボーラーが周囲に与えた影響力を振り返るべく、イタリアのペルージャ時代に取材歴のある「イル・メッサジェーロ」紙のアントネッロ・フェッローニ記者に改めて当時を振り返ってもらった。

   ◇   ◇   ◇

――中田自身のパーソナリティーへの印象は?

「とても頭がいい人だと思う。普通のレベルではない。彼は優れた頭脳の持ち主だ。サッカー選手はインテリジェンスだが、中田はそれ以上にかなり頭がいい。サッカー選手になっていなかったらどの分野でも一流になっていたと思う。教授にもなっていただろう。勉強して人に教えることもできただろう。文化的なレベルも高いし、高い能力を持っている。パースペクティブが広い人だから、彼にとってサッカーは重要だったが、ほかにも重要なことはある」

――確かに、日本酒の歴史的、文化的価値や、日本の工芸の歴史の深さに触れ、世界に紹介しようとしている今現在の行動は、素晴らしい試みですよね

「視野が広い人だ。サッカー選手として視野を広く保っていたが、今度は視野を広く世界を見廻している。サッカーだけではなく1つの環境で成功した人は、その世界に一生とどまるものだ。例えば、バレーボールの選手として成功した人は、解説者になって、バレーボールの試合を解説したり、その組織で働いたりする。でも違う世界でも成功すれば、その人は知能、頭脳的なレベルが普通よりも優れている証拠だ」

――中田英寿は、セリエAで活躍した日本人選手の誰よりも素晴らしいか?

「中田がセリエAで活躍したあと、多くの日本人選手たちがセリエAでプレーしたし、日 本のサッカーのレベルも上がった。多くの優秀な選手たちがいる。ガウチ会長は分かっていた。中田だけではなく、ほかの選手も連れてこようとしていた。その当時から考えたら日本サッカーはさらに成長した。いい選手はいる。でもみんなが中田英寿のように、ローマやパルマに行って、あのレベルのプレーができるとは思わない。僕にとっては中田英寿が一番ビッグな選手だった。彼は道を開いた。その道にほかの選手たちも入ってきた。確実に中田英寿は一番重要な活躍をした」

「ヒデがペルージャを忘れていなかったこと、それは大事なことだ」

――何かエピソードを教えてください

「一番驚いたのは、中田の謙虚さ。ジェントルマンだった。とても慎み深く、我々の要求に気さくに応えてくれた。インタビューに答えなくてもだよ。彼と話をするのはとても難しかったけどね。当時は特に日本人報道陣には話をしていなかったから。実際、日本の報道陣たちはどこへでも追いかけていた。トイレにさえも(笑)。あまりにも行き過ぎだよね。

彼はそういうプレッシャーを避けようとしていた。でもイタリアではまだスターではなかったから、僕たちペルージャのジャーナリストたちは普通に接していた。ほかの選手と同じように。それが中田を驚かせたようだ。僕たちの態度に驚いていた。しばらくしてから、僕たちは良い関係を築けた。

彼はインタビューに応じられなかったが、とても好感が持てる礼儀正しいジェントルマンだった。軽くお辞儀をして、僕たちの要求にいつも応えてくれていた。それは驚きだった。僕たちの記事を読んで、評価がポジティブだったからなのかもしれないが。良い関係だったよ。

数年前、中田が久しぶりにペルージャを再び訪れた時、ここのミュージアム(取材場所)にも来てくれた。古い友人に再会したかのように、何も忘れてはいなかった。それは僕たちにとって誇り高いことだ。ヒデがペルージャを忘れていなかったこと、それは僕たちにとってとても大事なことだ。彼がここにいた年月がどんなに重要だったか。僕らだけではなく、彼にとっても重要だったのを知って嬉しかった」

――ペルージャを今でも愛していると伝えてくれたんですね

「そうそう。僕たちに伝えてくれた。ペルージャが彼にとって重要なキャリアとなったこと、人生の中でも大事なひと時だったことが分かって嬉しかった。それともう1つ、面白いエピソードとしては、カルロ・マッツォーネ監督がペルージャに来た時のことも忘れられない。

マッツォーネ監督が『おい、ヒデは僕が話をしても全く分からないようだよ。僕の顔をよくジーと見て何も分かってない……頭はすごくいいんだが、どうしたらいいもんか』と言ったんだ。それで僕が『もちろん、ミスター、中田は頭がいい選手ですよ。すごく頭がいい。すごく優秀で誰よりもレベルが高い』言って『ヒデ、ミスターが言ってること分からないの?』と聞いたんだよ。

そうしたら中田は『僕はさっぱり分からないよ。ミスターはイタリア語喋らないから……ミスターはローマ弁だから』だって(笑)。マッツォーネ監督は僕たちのところへ来て、本当に聞いたんだよ。ヒデは頭が本当にいい奴なのかって。

ピッチ上での仕事ぶりはさずがだったよ。中田はマッツォーネ監督の下でとてもいい活躍をして、ローマに移籍した。そのあと、ボローニャでも彼の下でプレーした。ヒデは彼ととてもいい仕事をしたよ」

「イル・メッサジェーロ」紙のアントネッロ・フェッローニ記者【写真:倉石千種】

(倉石千種 / Chigusa Kuraishi)

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倉石千種

くらいし・ちぐさ/1990年よりイタリア在住。1998年に中田英寿がペルージャに移籍した時からセリエAやイタリア代表、W杯、CLをはじめ、中村俊輔、本田圭佑、長友佑都、吉田麻也、冨安健洋など日本人選手も取材。バッジョ、デル・ピエロ、トッティ、インザーギ、カカ、シェフチェンコなどビッグプレーヤーのインタビューも数多く手掛ける。サッカーのほか、水泳、スケート、テニスなど幅広く取材し、俳優ジョルジョ・アルベルタッツィ、女優イザベル・ユペール、監督ジュゼッペ・トルナトーレのインタビューも行った。

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