日本に影響を与えた43年前の“真実” ジーコがもたらした転機をラモス回想「きっかけを与えてくれた」

トークショーを行ったラモス瑠偉氏(左)とジーコ氏【写真:Getty Images】
トークショーを行ったラモス瑠偉氏(左)とジーコ氏【写真:Getty Images】

ジーコ氏とラモス氏が鹿島VS東京Vの前にトークショーに参加

 鹿島アントラーズと東京ヴェルディは5月12日、J1第13節で対戦し3-3のドローに終わった。この試合を前に両クラブのOBであるジーコ氏とラモス瑠偉氏がトークイベントを行った。Jリーグ創成期の顔だった2人のトークは、司会が「僕、必要ないですね」と言うほど盛り上がった。

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 1993年のJリーグ開幕に向けて、1991年に住友金属工業集球団に加入したジーコは、「(鹿島に入り)日本でプレーする前に2回日本に来ました。1回目は81年にフラメンゴの一員として来日し、リバプールと対戦しました。この時は観光などをする時間はなかったのですが、2度目に日本代表と対戦するために来日した時には、日本を見ることができ、日本サッカーも体験できました。当時はリーグもなく、サッカーのレベルは今とはかけ離れていました。フィジカル的にも、戦術的にも今のように高いレベルではありませんでした」と、当時を回想した。

 だが、1977年に一足早く来日していたラモス氏は、ジーコ氏が一度目に来日した81年の時から、多大な影響を日本サッカーに与えていたと語る。

 自身が来日した直後の日本のサッカーリーグ(JSL)を「草サッカーという感じだった。ブラジルだと草サッカーに500人くらいの観衆が集まる。でも、当時の日本リーグは300人だった」とその理由を説明し、「当時の日本ではブンデスリーガしかテレビ放送がありませんでした。その影響でフィジカルを生かしたロングボールばかりのサッカーが主になっていました。後ろからロングボールを蹴って、それを落としてシュートとか」と、振り返った。

 そんな状況で、なぜ読売クラブはブラジル流のサッカースタイルを見せるようになったのか。ラモス氏は、そこにもジーコ氏の影響があったと言う。「私が恵まれていたのは、読売クラブには個人技の高い選手がいたこと。うまいのに、そういうサッカーがあることを知らなかったから、『もっとゆっくりやろう』と、ショートパスのサッカーを取り入れて1年、2年とやろうとしました。さらに運がよかったのは、81年にジーコのフラメンゴが来日してくれたことです。フラメンゴは、私のチーム(バスコ・ダ・ガマ)をいつもイジめるから好きではありませんでしたが、ジーコのプレースタイルは好きでした(笑)。フラメンゴの試合を選手みんなで見に行ったんです。そこからみんな練習のミニゲームでも『フラメンゴ、フラメンゴ』と言いながらやるようになりました」と、ジーコを中心としたフラメンゴが3-0とリバプールを圧倒したゲームが、大きな転機になったと明かした。

 さらにジーコ氏は、翌1982年のスペインW杯にブラジル代表の一員として出場。優勝こそできなかったものの、ジーコ氏、トニーニョ・セレーゾ氏、ファルカン氏、ソクラテス氏の4人が構成した中盤は「クワトロ・オーメン・ジ・オーロ(黄金の4人)」と称され、世界に衝撃を与えるサッカーを見せた。前年にリバプールを破るフラメンゴを見ていた読売クラブの選手たちは、さらにジーコ氏らが見せたスタイルに傾倒していったという。ラモス氏は「2年間でものすごく強くなった。そのきっかけを私たち、読売クラブに与えてくれたのは、ジーコのフラメンゴだった」と、Jリーグ創成期まで圧倒的な人気と実力を誇ったクラブの原点に、初来日した当時のジーコ氏が与えた強烈なインパクトがあったことを強調した。

(河合 拓 / Taku Kawai)



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