日本は「心の中の第2の国」 無名で来日→ブラジル代表W杯出場の元助っ人が認めた「宿敵」

ヴェルディなど歴代のユニフォームを飾るフッキ【写真:藤原清美】
ヴェルディなど歴代のユニフォームを飾るフッキ【写真:藤原清美】

【あのブラジル人元Jリーガーは今?】フッキ(元川崎、札幌、東京V):後編――東京Vサポが歌ってくれたチャントに喜び

“ハルク”のニックネームそのものとも言える強靭なフィジカルを持ち、パワーと同時に、技術とスピードも兼ね備える。シュートの決定力も、プレーにおけるインテリジェンスもある。ブラジル代表FWフッキは、Jリーグでプレーした3年半の間に日本のサポーターに強烈な印象を残した。

「コンニチハー。ニホンゴ、スコシ。ムズカシイネ」

 日本を離れて16年近く経つ今でも、そう笑顔で語りかけてくる。フッキの日本への愛情は、今なお非常に深い。

「僕は3つのクラブでプレーしたんだ。18歳と若く、ブラジルのヴィトーリアでプロデビューしてまだ2試合しか出ていなかった僕を、最初に日本に呼んでくれたのが川崎フロンターレだった。それがあるから、今の僕がある。本当に感謝しているよ。ただ、当時は素晴らしいブラジル人選手たちが活躍していたこともあり、実際に出場した試合数は一番少ないんだ。

 それで、1年間コンサドーレ札幌(現北海道コンサドーレ札幌)に行った。(当時)J2だったけどとてもいいチームで、僕も25得点決めた。日本で多くのゴールを決めるようになったきっかけのクラブだから、やっぱり感謝ばかりだよ。

 その次が東京ヴェルディ。僕にとっては、日本での一番いい時期だった。というのも、ラモス瑠偉監督とともに、僕らはJ1に昇格したんだ。僕も得点王になって、しかも歴代記録となる37ゴールを決めて、チームに貢献できた。だから、僕にとっても、サポーターにとっても、心に刻まれる年になった」

 フッキに日本での思い出を聞くと、まず出てくるのがサポーターとのエピソードだ。

「ヴェルディサポーターが歌ってくれたチャントが、今でも記憶に刻まれている。『エー、フッキ・ゴール、フッキ・ゴール、フッキ・ゴール、フッキ・ゴール、ラー、ボンバ!♪』。ヴェルディでのJリーグ初戦、ザスパ草津戦でゴールを決めたんだ。すごく強烈なロングシュート。それで、サポーターがこの歌を歌い始めた。心に残ることだったよ。あの試合から、ピッチに入る時にはもう、ゴールを決めて、サポーターに喜びを与えるんだと思える自信が付いた」

長友vsフッキの様子【写真:Getty Images】
長友vsフッキの様子【写真:Getty Images】

若き日に手を焼いた長友佑都は「宿敵」

 3年半で、Jリーグ、Jリーグカップ、天皇杯を合わせて73得点を挙げたフッキに、思い出の1ゴールを聞いた。

「全部が忘れられないけど、真っ先に頭に浮ぶのは、僕の誕生日に決めたゴールだ。2007年7月25日のヴェルディ対セレッソ大阪戦。PKでの得点だった。あの日、サポーターがたくさんの横断幕で祝ってくれてね。日本語と、ポルトガル語で書いたものまであった。彼らの愛情やすべてが嬉しかったよ。だから、僕はピッチの中で、ベストな形で返事をしようと頑張った。ヴェルディを去ってブラジルに帰る時には、大勢のサポーターが空港に来て『行かないで!』と言ってくれた。僕は『心まで去っていくわけじゃない。みんなへの愛情はこれからも変わらない』と約束したんだよ」

 フッキは“思い出の人々”についてはこのように語る。

「ヴェルディでラモス監督と一緒にやれたことは大きかったな。僕の特徴を理解して、僕がチームのために一番力を発揮できる起用の仕方をしてくれたんだ。どういうシステムを採用しても、得点を挙げるという役割に専念させてくれたあの頃からイエローカードも減ったんだよ。もちろん、時とともに経験を増し、自分だけでなく、チームにも妨げになることを学んでいった。そのなかでも、ヴェルディでは『みんなで勝つんだ』『みんなでJ1昇格を果たすんだ』という気持ちが、本当に強くなったからね」

 日本を離れてから再会したチームメイトたちもいる。

「ブラジル代表として戦った親善試合の日本戦(2012年10月16日/4-0)には、フロンターレで一緒だった中村(憲剛)や川島(永嗣)がいた。たしか、あの試合では宿敵とも会ったんだ(笑)。長友(佑都)だ。僕がヴェルディの時に、彼はFC東京にいて、すごくウザかった(笑)。スピーディーでいい守備をするうえに、試合の間中、僕を挑発して集中力を奪ったんだ。思い返せば『彼に勝つには、もっといいプレーをしなければ』と、闘志を燃やし合える相手だったと思うよ」

フッキと家族【写真:本人提供】
フッキと家族【写真:本人提供】

日本への感謝の気持ちを「今でも持ち続けている」

 一味違う思い出として語ってくれたのは、中国での上海上港時代の話だ。

「2017年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)に出場し、上海ホームで浦和レッズと対戦したんだ。そこで浦和サポーターにブーイングを浴びてね。でも、僕はそれを愛情表現として受け止めた(笑)。そのお返しに僕は2ゴールを決めたんだ。

 というのも、僕の日本での最後の試合は、埼玉スタジアムでのヴェルディ対浦和戦(2008年J1第17節)だった。浦和は勝者のチームで、特にホームでは、アジアでも最大の1つと言われるサポーターがいる。でも、そこで僕はゴールを決めたんだ。だから僕のことが少し印象に残っていたんだと思う。日本を離れて9年経っていたけど、日本との結び付きを感じられた」

 日本に来たことでチャンスを掴み、成長していったと言われるフッキ。振り返ってみた時、日本での経験は、今の彼にどう影響しているのか。

「僕はブラジル代表でもプレーしたし、ポルト、ゼニト、上海上港、アトレチコ・ミネイロと、どこへ行ってもレギュラーとして、多くのタイトルに貢献し続けてきた。その出発点となる日本に行った時は、実際すごく大変だったんだ。まだ18歳で、しかも1人暮らしだったから。でも、そのおかげですごく学んだし、多くの経験を得た。そして、何より日本の人たちが僕をすごく手助けしてくれた。まだ何者でもなかった僕は、そのサポートや愛情に感謝する心も学んだ。若くしてそういう時期を過ごせたからこそ、その感謝の気持ちを今でも持ち続けている」

 フッキは普段から、日本メディアに対してだけではなく、ブラジルメディアに対しても、日本サッカーの良さ、日本の人たちへの感謝などを熱く語っている。

「自分をすごく手助けしてくれた国に対して、感謝を表すのは、僕がやれる最低限のことだからね。日本を離れ、別の国、別の街に行けば、そこにも大きな愛情を持つようになった。どこへ行っても新たな友情が生まれ、それは一生続くものだ。だけど、日本は特別なんだ。日本への郷愁、友情と尊敬……。今でも僕の心にある第2の国だ。子供たちを連れて行って、僕の愛する国、愛する人たちを知ってもらいたい。今はブラジルでプレーしているから少し難しいけど、人生において、何度でも訪ねるつもりだよ。そして、心からの感謝を伝え続けたい」

[プロフィール]
フッキ/1986年7月25日生まれ、ブラジル出身。ヴィトーリア(ブラジル)―川崎―札幌―東京V―川崎―東京V―ポルト(ポルトガル)―ゼニト(ロシア)―上海海港(中国)―アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)。J1リーグ通算22試合8得点、J2リーグ通算80試合62得点。無名だった18歳の時に来日し、川崎から期限付き移籍した札幌でブレイク。2007年には東京VでJ2リーグ37ゴールを叩き出して得点王を獲得するとともに、チームのJ1昇格の立役者となった。超人的なフィジカルと左足から放つ弾丸のような強烈シュートを武器に、その後は海外リーグで活躍。09年にブラジル代表に選出。14年のブラジルW杯にも出場した。Jリーグで育ったブラジル人選手の中で、その後に最も有名になった1人だ。

(藤原清美 / Kiyomi Fujiwara)

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藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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