あの中田英寿が「おしゃべり」だった頃 マスコミと良好関係…目を輝かせ「人懐っこく、話好き」【コラム】
「無口」の印象なかった中田英寿、若き日の姿から紐解くパーソナリティ-
日本サッカー界はこれまで数々の名プレーヤーを輩出してきた。日本代表や欧州クラブで輝かしい実績を残した中田英寿氏はその1人。ワールドカップ3大会に出場したレジェンドは早くから世界に目を向け、21歳でイタリア1部セリエAへの挑戦を決断。その後、ワールドクラスの選手へと成長を遂げた。
2006年夏に29歳の若さで現役を引退した「孤高の天才」は、一体どんな人物だったのか。「FOOTBALL ZONE」では改めて、中田氏が現役時代に示した言動を振り返り、秘めたるパーソナリティ-を紐解く。
◇ ◇ ◇
Jリーグ開幕とドーハの悲劇があった1993年、中田英寿が「世界デビュー」したのは、2つに挟まれた8月だった。U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)、日本で開催された第5回大会に、山梨・韮崎高2年の中田が出場した。
東京、神戸、岐阜と若き日本代表を追いかけた、ただ、正直なところ中田の印象はさほどない。U-17日本代表の攻撃の中心は天才的なパスセンスを誇るMF財前宣之(読売ユース)、点取り屋は194センチの超大型FW船越優蔵(長崎・国見高)。FWとして登録されていた中田は「いい選手」だったし、将来も嘱望されてはいたが、この時点ではチームの中で「特別な存在」ではなかった。
日本はFIFA(国際サッカー連盟)主催の国際大会で初めて1次リーグを突破。準々決勝でナイジェリアと対戦するが、1-2で敗れた。この大会で優勝するナイジェリア相手に0-2から1点を奪ったのが中田だった。もっとも、当時のメディアの中田への関心は薄く、試合後に記者が最も多く集まったのはエースの財前のもとだった。
もちろん、誰もが認める才能を持っていた。韮崎卒業時はJリーグ12クラブのうち11クラブが獲得に乗り出したと言われる。その中から選んだのがベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)。95年、中田は1年目で定位置を掴んで試合に出場した。
前年Jリーグに加入したばかりの平塚には、中盤にリーグベストイレブンにも選ばれたベッチーニョという「王様」がいた。ブラジル代表経験もある背番号「10」はパスも出せるしゴールも奪う攻撃の中心。2トップには日本代表の野口幸司と元ブラジル代表のアウミール。中田に与えられたポジションは、主にサイドのMFだった。
それでも、中田は輝いた。U-20日本代表の試合などで抜けても、チームに戻ると攻撃のアクセントとして貴重な働き。ベッチーニョに「使われる」場面も多かったが、抜群の決定力で得点した。少しずつFW陣に配給するパスも増えていった。
1年目のホーム戦、ベッチーニョが欠場した試合だった。中田は「王様」の代わりにトップ下のポジションを与えられ、チームの攻撃を自在にリードした。のちに代名詞ともなった高速のスルーパスで前線を走らせ、サイドのMFやサイドバックを操るパスも出した。18歳の中田は、チームの「王様」に見えた。
記者の呼びかけに嬉しそうに…「無口」の印象なかった若かりし頃
試合後、ミックスゾーンでのコメントが物足りなく、バスの前で中田を待った。真っ先に出てきた中田に「もう少し聞きたいのですが」と言うと、嬉しそうに立ち止まってくれた。「ポジションが中央になって、すごく生き生きと見えた」と伝えると「そうなんですよ。すごく楽しかったです」。そこから、話は止まらなかった。
平塚入り直後の中田に「無口」の印象はない。いい意味で「おしゃべり」。特にサッカーの話、戦術的な話は好きなように見えた。「中央に位置すれば視野が広くなる。サイドだと片側に限られますから。広い視野でプレーするのが好き」「マークは厳しくなるけれど、それを跳ね除ける楽しさもある」……。30年近く前だが、そんな内容だったと記憶している。
印象的だったのは、こちらの意見を求めてきたこと。思慮深いベテラン選手のように「どう見えました?」「うまく機能していました?」。矢継ぎ早に聞いてくる。草サッカーレベルの知識で一生懸命答えると、頷きながら「そうですよね」「そこなんですよ」。チームメイトが次々とバスに乗り込むのも気にせず、話は続いた。
勝手な話ではあるけれど、こちらも原稿の締め切り時間がある。話しかけておいて一方的に打ち切ることはできないと困っていると、バスの中から「お~いヒデ、みんな待ってるぞ」と先輩選手の声。「あっ、すみません」とバスに向かって叫ぶと、こちらに一礼をして、走り去っていった。
爽やかで、明るくて、賢く、人懐っこく、話好き。U-17日本代表でも、韮崎高でも、短時間しか話をしたことはなかったが、立ち話ながら初めてじっくり話を聞いて分かった。プレーはもちろんだが、その人間性も中田の魅力だった。
ベッチーニョが戻った次の試合は再びサイドに追いやられた。「真ん中でプレーしたいんだろうな」と思いながら平塚の試合を見ていると、いつのまにか「王様」と並ぶようになり、いつしかベッチーニョをサイドに置いて中央に立っていた。広い視野が、中田自身のためでなく、チームの武器になったのだ。
1996年には19歳でアトランタ五輪に出場。翌97年には20歳で日本代表に初めて招集された。代表入りが決まった直後の平塚の試合前「日本代表に選ばれました!」とロッカールームを歓喜する姿があったという。「普通の選手なんですよ、全然クールじゃない」と笑いながら教えてくれたのは、代表の同僚だった。
日本代表の中心として成長し、海を渡って活躍した。同時に、これまでのサッカー選手にはない新しい時代の「プロサッカー選手像」が出来上がっていった。マスコミとの仲もうまくいかなくなった。それでも、あの日、バスの前で目を輝かせて話していたのも、間違いなく中田英寿だった。
(文中敬称略)
(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。