大手証券社入り辞退→プロ生活「後悔ない」 38歳で逝去…元J選手が語った「人生のif」【コラム】
今年1月に38歳で他界、早稲田大からプロ入りした川崎時代に交わした言葉
今年1月、元Jリーガー横山知伸さんが逝去した。38歳という若さでこの世を去った横山さんは2008年、早稲田大学から川崎フロンターレ入りし、プロデビュー。その後、セレッソ大阪、大宮アルディージャ、北海道コンサドーレ札幌、ロアッソ熊本、FC岐阜と計5クラブを経て、20年に現役を引退した。
そんな横山さんは2018年、突然の病に襲われた。診断結果は脳腫瘍。手術と治療を施し引退後は指導者の道を歩んでいたなか、23年夏に病気が再発し治療に励んだものの、帰らぬ人となった。生前の横山さんはどんな人物だったのか。早稲田大からプロ入りした川崎時代、記者と交わした会話から人物像を紐解く。
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横山さんについて思い出すのは、ピッチでのプレーよりも、むしろ取材でのやり取りだ。
現役引退するまでにいくつかのクラブを渡り歩いているが、プロのキャリアをスタートしたのは川崎フロンターレだった。「ヨコ」の愛称で親しまれ、クラブ在籍中は選手会長も務めた。物腰が柔らかく話しやすいタイプだったので、練習後の取材ではたわいもない雑談もよくしたのを覚えている。
ある時、読書家である彼から「オススメのサッカー本があったら、教えてくださいよ」と聞かれたことがあった。当時発売されたばかりだった長谷部誠(現フランクフルト)の「心を整える」が面白かったと伝えると、「あっ、それ聞いたことあります! チェックしてみます。長谷部選手はニーチェも読んだって特集で見ましたよ」と興味津々で、すぐに購入して読み終え、後日にはその感想を現役選手の視点で述べてくれた。だからと言って、それを何かの記事にしたわけでもなかったのだが、自己マネジメントや教養を深めることにも貪欲な彼との雑談はいつも楽しい時間だった。
経歴を振り返ると、帝京高校卒業後に早稲田大学に入学している。だがサッカー推薦による入学ではなかった。1年間、予備校で浪人生活を送り、一般受験で合格しているのである。大卒Jリーガーは数多くいるが、予備校で浪人生活を経験していたプロ選手はあまり聞いたことがない。当時の猛勉強を振り返って「禿げるほど勉強しましたよ」と本人はサラリと笑っていたが、相当な努力をしていたのだろう。
そして、よく話題に上がるのが、早稲田大4年次に野村証券に内定していたことである。最終的にはその内定を辞退し、入団の打診を受けていたJ1川崎入り。浪人生活を経て大学生になり、大手証券会社の入社を断って、Jリーガーになる道を選ぶ。サッカー一筋で生きてきた多くの選手と比べて、どこか違うものを見たうえでピッチに立っている選手のようにも感じた。
そんな彼にある時「もしサラリーマンになっていたら……って思ったことってある?」と尋ねたことがあった。プロサッカー選手としての道を選んだ一方で、証券マンとして働く道を想像することはあるのだろうか。そんな「人生のif」について、単純に聞いてみたくなったのだ。
プロか、サラリーマンか…後悔なき生き方を選び続けた男
「それが……全然ないんですよ」
これが、本人の回答だった。
「プロになった時もよく聞かれたんですけど、周りが思っているほどサラリーマンに執着していなかったんです。フロンターレから話が来た時も即決でしたから。それに自分、サッカー好きですよ……サッカー好きに見えないんですかね?」
そう言って、はにかんでいた。
「サッカーが大好きで生きてきたのに、それを生業にできる道で何を迷うことがあるんですか」と、柔らかな口調の言葉の中から、そう問いかけられたように聞こえた。
そして、その後に続けてくれた言葉も忘れられない。
「もし就職していたら、きっとサッカーがやりたいと思っただろうし、もしプロになって試合に出れなかったら、サラリーマンになっていれば……と思うものですよね。だから、人生ってどっちに行ってもその道で頑張れば、きっと後悔はしないんと思うんですよ。自分のやりたいほうをやればいい。なので1回も後悔したことはないです」
どちらの道に進んでも、その道で頑張れば後悔はしない。彼はそう言い切っていた。だから、横山さんとはどんな選手だったのかと思い出す時、自分にはこの時の風景と言葉が蘇る。38歳の若さで生涯を終えたが、そう言い切れるような生き方を選び続けた男だったのだと思っている。
新生活が始まった4月。新社会人や学生の中には、もしかしたら、自分が描いていた未来とは違ったり、うまくいかずに立ち止まって、人生の選択に悩んでいる人もいるかもしれない。そんな時は、横山さんが残してくれた言葉を、頭の片隅で気に留めてもらえると幸いである。
(いしかわごう / Go Ishikawa)