プロ初先発で大仕事…神戸の22歳新人MFは何者? 筑波大卒のボランチがいきなり見せた“新境地”【コラム】
神戸MF山内翔は町田戦でプロ初先発ながら大活躍
国立競技場のピッチには絶対的エースのFW大迫勇也も、森保ジャパンに名を連ねるGK前川黛也もいなかった。攻守の大黒柱を同時に欠いた陣容でヴィッセル神戸がキックオフを迎えるのは、J1リーグ戦では2022年9月18日のガンバ大阪戦以来、47試合ぶり、実に573日ぶりだった。
両者がそろい踏みし続けた昨シーズンの神戸はJ1リーグを初めて制覇。自己最多の22ゴールを挙げた大迫はFWアンデルソン・ロペス(横浜F・マリノス)とともに得点王を獲得し、さらに最優秀選手賞(MVP)も受賞。前川も自身初の全34試合、3060分にわたってフルタイム出場を果たした。
その意味で大迫を右足首の怪我で、前川を出場停止で欠いた13日のFC町田ゼルビア戦は非常事態だった。ただ、副キャプテンのDF酒井高徳は「正直、キーパーはあまり変わりなかった」と胸中を明かす。
「もちろんウチで出る試合経験としての少なさはあるかもしれないけど、何回も修羅場をくぐってきたベテランのキーパーなので、特にそこに関しては心配していなかったですね」
酒井が全幅の信頼を寄せたのは35歳のGK新井章太。川崎フロンターレに所属した2019シーズンまでの7年間は、大半でセカンドキーパーを務めながら正守護神が不調に陥るか、あるいは怪我を負った緊急事態で代役を務め上げてきた。ジェフ千葉から加入した今シーズンも、新井の姿勢はまったく変わらない。
一方で最前線においてボールを収め、周囲を生かしながら攻撃の起点になり、自らも相手ゴールに迫っていく大迫の代役はいない。酒井も「大きく違うのは、やはりサコのところだった」と町田戦後に振り返った。
大迫を欠いた攻撃陣を、どのような顔ぶれで再構築するのか。熟慮した吉田孝行監督が国立競技場のピッチへ送り出したのが変則的な3トップであり、さらに急造の左ウイングバックという組み合わせだった。
基本的には宮代大聖と佐々木大樹を2トップとする4-4-2であり、マイボールになれば右サイドハーフの武藤嘉紀が上がって変則3トップへ移行。その上で左サイドハーフに筑波大卒のルーキーで、ボランチを主戦場とする山内翔を抜擢した。プロ初先発の22歳に与えたタスクを吉田監督はこう説明する。
「怪我人が多いなかで、ウイングというかウイングバックというか、ちょっと変則的な形でプレーさせた。前線にパワーのある選手を3人置いた布陣で、彼らを生かせる選手が誰なのか、というのを考えたときに、局面における球際の強さを含めて、体もしっかりしている山内が最も機能するのではないか、と」
果たして、山内は指揮官の期待を上回る活躍を演じた。眩い脚光を浴びたのは前半45分だった。
町田のGK福井光輝のロングキックを、身長194センチのFWオ・セフンが頭でさらに前方へ送った先で、最終ラインのDF初瀬亮がはね返した。次の瞬間、こぼれ球を巡って山内と町田のMF仙頭啓矢が激しく接触。吉田監督が評価した体の強さを発揮した山内はボールを渡さず、逆に仙頭をピッチに転がした。
さらにこぼれたボールをDFドレシェヴィッチと争った宮代が奪い取って、ハーフウェイライン付近からカウンターを発動させる。右サイドへ向かってドリブルしながら、右角からペナルティーエリア内へ進入した宮代は、相手の意表を突くヒールパスを選択。後方の武藤へ以心伝心でボールを託した。
左足から放たれた武藤のシュートは相手にブロックされたが、はね返ってきたボールに自ら詰め寄った。町田のDF林幸多郎もブロックしようと突っ込んできた直後に、ボールは林に当たって左へ流れた。
そこには仙頭と接触した後も倒れず、自陣からカウンターをフォローしてきた山内がいた。
指揮官が見るルーキーを先発させた訳「いいサッカー観を持っている」
「あのときはチームとして右サイドから相手のペナルティーエリア内に入っていきましたけど、そういった場合には逆サイドからも誰かが入っていく、という動きがチームの約束ごととしてありました。あそこにいれば必ずボールが来るとは思っていませんでしたけど、あの場面では『来たっ!』という感じでした」
心のなかで叫び声が聞こえたと試合後に照れながら明かした山内は、フリーの状態から利き足の右足を振り抜いた。山内の姿に気がつき、慌てて飛び込んできたDF鈴木準弥のブロックも間に合わない。強烈な一撃が緩やかな弧を描きながら、町田ゴールの右隅へ突き刺さるまでの過程を次のように振り返った。
「ボールが来る前にかなり時間があったので、相手キーパーの位置を含めて、周りの状況がすごくクリアに見えていました。そこへこぼれてきたボールを、自分が狙ったところへ上手く流し込めました。今日のようなタフなゲームで先制点を取れたのは、チームとしてすごく大きかったと思っています」
開幕から4試合続けてベンチ入りを果たせなかった山内は、3月30日の北海道コンサドーレ札幌との第5節の後半37分から途中出場。システム3-4-2-1に変わっていたなかで、シャドーの一角として待望のデビューを果たすと、続くサガン鳥栖戦、横浜F・マリノス戦でリザーブとしてスタンバイしてきた。
そのマリノス戦で右足首を痛めた大迫が後半20分に退場。背番号「10」を欠いたまま積み重ねてきた、町田戦へ向けた練習のなかで、山内は本職とは違う左サイドハーフでの先発を感じ取っていた。
「いつもと違うポジションなのは数日前から分かっていましたし、その上で自分のできるプレーと、あとは監督から求められるプレーの両方をやるしかないと思っていた。自分のなかでそこは上手く割り切れた感じです」
とはいえ、チームの心臓部で攻守のバランスを司るボランチと、攻撃時にはウイングバックのような動きを求められるサイドハーフとでは、ピッチ上から見える景色を含めてすべてが異なってくる。どのように自分を順応させたのか。山内は「もちろん難しいところはありますけど」と断りを入れた上でこう続けた。
「自分がこういうポジションでプレーするのは合わない、などとネガティブに考えるよりは、もうやるしかないと思っていました。普段とポジションが違うからとか、そういったものは後付けや言い訳にしかならない。自分の立場というものもありますけど、とにかく求められるプレーをやるしかない、と」
吉田監督は札幌戦後に、プロデビューさせた山内について「いいサッカー観を持っている」と評価した。このサッカー観とは何なのか。キャプテンのMF山口蛍が、町田戦後に次のように言及している。
「翔の特徴は裏へ抜けるようなプレーではない。それでも、あいつはすごく賢い選手なので、自分がどこにいなきゃいけないのか、といった点などを、実際に試合のなかで上手く考えながらプレーしていた」
自分自身を常に客観視し、同時にチーム事情も理解しながら、首脳陣から寄せられる期待との狭間で最大公約数のプレーを見つけ出す。こうした作業を自らに課せる点が、山内が持つサッカー観の高さなのだろう。
アカデミー出身の山内への祝福「とにかくもみくちゃにされた」
京都市で生まれ育った山内は、中学生年代から神戸のアカデミーに所属。高校生年代のU-18ではキャプテンを務めたが、トップチームへの昇格は果たせなかった。それでも進学した筑波大ですぐに主力に定着。3年生に進級する直前に卒業後の神戸入りが内定した。プレーの特徴についてクラブ公式サイトはこう伝えている。
「確かな戦術眼とハイレベルな技術を兼ね備えたボランチ」
JFA・Jリーグ特別指定選手として神戸に登録された2022、2023シーズンと公式戦の出場機会はなく、ルーキーイヤーの今シーズンも前述したように第4節までベンチ外が続いた。大学ナンバーワンボランチとしてプロ入りした山内の姿を、神戸のアカデミーと筑波大の先輩でもあるDF山川哲史はこう振り返る。
「キャンプだけでなく、シーズンが始まってからも練習で常にいいプレーを続けていたなかで、メンバーに入れなくても決して腐らなかった。普段から積み重ねてきた努力といったものが、こういった重要な試合での結果に繋がったとあらためて思うし、後輩の活躍というのはやはり嬉しいですね」
後半終了間際の44分に武藤が追加点を決めた神戸は、アディショナルタイムの同51分に1点を返されたものの、そのまま逃げ切って3試合ぶりとなる勝利をゲット。町田を首位から3位へと引きずり降ろした。神戸も4勝2分け2敗の勝ち点14として、首位のセレッソ大阪と勝ち点4ポイント差の4位につけている。
「言葉をかけられたというよりは、とにかくもみくちゃにされて。自分も興奮していたのであまり覚えていないですけど、チームのみんなが本当に喜んでくれた。自分は神戸のアカデミーで育ったので、初めて先発した試合で自分の初ゴールでチームの勝利に貢献できたことを、今日だけは喜んでいいと思っています」
DF本多勇喜との交代で後半22分にピッチを後にして、白星をつかみ取るまでの過程をベンチで見守った山内はゴール直後に浴びた手洗い祝福を振り返りながら、今後へ向けてこんな言葉を残している。
「こういう状況は長いシーズンのなかで絶対にあると思いますし、そこで出る選手がチームの力になるしかないと考えていました。ただ、自分自身はミスも多かったので、しっかり振り返って次に向けてやっていきたい」
こういう状況とは、大迫のように主力を欠く事態を指す。ボランチでのプレーに磨きをかけながら、チームに求められる選手へ適応する作業も忘れない山内に、吉田監督も「彼の自信になったはずだし、チーム内に新たな競争も生まれた」と目を細める。J史上8度目の連覇を目指す神戸で、頼もしいルーキーが第一歩を刻んだ。
藤江直人
ふじえ・なおと/1964年、東京都渋谷区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後に産経新聞社に入社。サンケイスポーツでJリーグ発足前後のサッカー、バルセロナ及びアトランタ両夏季五輪特派員、米ニューヨーク駐在員、角川書店と共同編集で出版されたスポーツ雑誌「Sports Yeah!」編集部勤務などを経て07年からフリーに転身。サッカーを中心に幅広くスポーツの取材を行っている。サッカーのワールドカップは22年のカタール大会を含めて4大会を取材した。