プロ化を急がせた40年前の屈辱 “守備戦術”の限界、歴史的敗戦から振り返る五輪予選【コラム】

40年前に日本が五輪予選で味わった屈辱を回顧(写真はイメージです)【写真:Getty Images】
40年前に日本が五輪予選で味わった屈辱を回顧(写真はイメージです)【写真:Getty Images】

40年前の五輪予選で歴史的な敗戦を味わった日本

 サッカー男子のパリ五輪アジア予選がU-23アジアカップ(杯)として4月15日にカタールで開幕する。大岩剛監督率いるU-23日本代表が五輪キップ獲得に挑むが、16チームで争う大会のアジア枠は3.5と狭き門。7大会連続出場中の日本は五輪の「常連」だが、今からちょうど40年前、日本は五輪予選で歴史的な屈辱を味わっていた。

 1984年ロサンゼルス大会のアジア最終予選が行われたのはシンガポール。欧州や南米のクラブチームとの親善試合で好結果を出していたチームは、16年ぶりの五輪復帰が期待されていた。ところが、4月15日の開幕戦でタイに2-5の完敗。マレーシア、イラク、カタールにも敗れ、勝ち点0で最下位に終わった。

 当時、ワールドカップ(W杯)は「出るもの」ではなく「見るもの」。アジア・オセアニアで2枠しかなかったW杯に対して五輪はアジアで3枠あり、現実的な目標だった。韓国、クウェート、サウジアラビアとも別グループで「絶好機」だったが、それでも五輪は遠かった。銅メダル獲得後の長い低迷。「メキシコの呪縛」とまで言われていた。

 それでも、森孝慈監督率いるチームは続く86年W杯メキシコ大会のアジア予選で初出場へ迫る健闘。韓国との決戦には敗れたものの、DF加藤久(読売クラブ)、MF木村和司(日産自動車)らの活躍は次の88年ソウル五輪での20年ぶり出場に期待を抱かせた。常に世界へのライバルとして日本の前に立ちはだかってきた韓国が開催国として予選に出てこないことが大きかった。

 当時、日本代表の監督は親会社からの出向。森監督も三菱重工の社員だった。プロ化していた韓国に敗れ、日本代表にも実質的なプロ選手が増えていたことから、森監督は日本サッカー協会(JFA)にプロ監督としての契約を直訴。これが認められずに森監督が辞任したあたりから日本サッカーが「プロ」になる過程での迷走が始まった。

 森氏の後を引き継いだのが石井義信監督。フジタ工業(現湘南ベルマーレ)監督として爆発的な得点力を誇る超攻撃サッカーを展開してきたが、代表監督就任時に掲げたのは「守備重視」と真逆。「ソウル五輪の予選まで時間がない」ことと「アジアの中での日本の力を冷静に見たら、守って少ないチャンスを狙う方が突破の可能性は高い」というのが、新監督の説明だった。

 攻撃の軸ながらも調子を落としていた木村を外し「守れること」「走れること」を重視して選手を起用。森監督時代から主将を務めてきた加藤やドイツから帰国したDF奥寺康彦(古河電工)らで強固な守備を築き、MF水沼貴史(日産自動車)やFW原博実(三菱重工)、手塚聡(フジタ工業)ら限られた人数で攻めるのがパターンだった。

 アジア枠は開催国の韓国を除く2つ。前回とは違って、東西アジアに1枠ずつが与えられた。消極的過ぎる戦い方には批判もあったが、石井監督はブレなかった。シンガポール、インドネシアとの1次予選を4連勝で突破。最終予選でもタイとネパールを退けて、予定通り中国との一騎打ちに持ち込んだ。

 当時、実力的には互角か中国がやや上。しかし、日本は広州でのアウェー戦で先勝する。鍛えられた守備陣が相手の猛攻を完封し、MF水沼のFKから原が頭で決めた1点で競り勝った。ホーム戦で引き分ければ五輪出場が決まる展開に、期待は爆上がり。ファンもメディアも「手のひら返し」で石井監督の現実的サッカーを賞賛した。

国立で行われたリターンマッチで完敗

 10月26日、雨中の国立競技場。守備力が武器の日本がホームで相手を0点に抑えれば五輪出場が決まる。苦闘の歴史を事前出稿し、記者席で待つキックオフ。ちょうど2年前、同じ会場でW杯初出場をかけた韓国戦に敗れたことを思い出しながら「今度こそは」と期待した。

 開始早々の決定機を逃した後、前半37分に失点。守備重視のチームが、その限界を露呈した。攻めあぐねる中で時間だけが過ぎ、2失点目を喫した。掴みかけて逃した20年ぶりの五輪出場。選手たちの顔は涙と雨でびっしょりだった。韓国だけでなく中国にも置いていかれた。失望感とともに危機感がスタンドに充満していた。

 辞任した石井氏は古巣のフジタに戻り、日本リーグがプロ化を目指して立ち上げた「リーグ活性化委員会」に前代表監督の森氏とともに名を連ねた。Jリーグ開幕前に臨んで跳ね返された五輪予選。この敗戦が日本サッカーのプロ化を急がせたのは間違いない。それほど大きな敗戦だった。

 後にフジタの強化部長やFC東京のアドバイザーとしても活躍した石井氏。「代表監督として攻撃サッカーをしたかったのでは」と聞いたことがある。「そりゃ、攻撃的なスタイルは楽しいし、やりたかった。でも、当時のアジアの中での日本の力を考えると、あれ(守備的)しかなかった」。

 五輪サッカーは92年バルセロナ大会から23歳以下の年齢制限が設けられることが決まっており、88年ソウル大会がA代表で臨んだ最後の予選。好守にバランスのとれた森監督から守備重視の石井監督までスタイルさえ定まらなかった日本代表。迷走した末にA代表での五輪出場チャンスを逃したが、この迷走は次のバルセロナ大会の予選でも止まらなかった。

 銅メダルを獲得した68年メキシコシティ―大会から五輪の舞台を踏めなかった日本。それでもJリーグ発足後は1度も出場を逃していない。40年前の屈辱的な敗戦が、プロ化への一歩となったのは言うまでもないだろう。

(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)

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荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

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