遠藤の両親が「航」に込めた願い デビュー後は苦悩も…リバプール移籍で実現“最高の親孝行”【コラム】
現地のネガティブな意見を跳ね返す活躍の裏舞台…遠藤のキャリアを回顧
イングランド1部プレミアリーグで熾烈な優勝争いを繰り広げているリバプール。世界的名将、ユルゲン・クロップ監督が今季限りで退任するとあって、タイトル獲得へのモチベーションはひと際、高まっている。
その牽引役として期待されるのが、日本代表キャプテン・遠藤航。今夏、クロップから直々にオファーを受け、最高峰リーグにステップアップしたMFは当時30歳。「30代の日本人がプレミアで活躍できるとは思えない」といったネガティブな見方も少なくなかった。
当初は確かに適応に苦しんだが、10番を背負うアレクシス・マック・アリスターが負傷離脱した昨年12月以降、一気にアンカーの定位置を奪取。後半戦突入後はマック・アリスターやドミニク・ソボスライらとともに強固な中盤を形成しており、クロップ監督からも「ワタルは何て素晴らしい選手なんだ」と称賛されている。
「航はピッチ内外で同じミスを繰り返さない人間。その能力が非常に高かった。空気を読む力や自己解決能力の高さは、本当に群を抜いていた。自分が指導した選手の中ではピカイチですね」と湘南ベルマーレユース・トップで指導した曺貴裁(チョウ・キジェ)監督(現京都サンガF.C.)も絶賛するほど、遠藤航は困難な環境下でも自分のやるべきことを明確に見出せる男。だからこそ、リバプールでも短期間で不可欠な存在に上り詰めることができたのだろう。
その遠藤航はご存知の通り、1993年2月に横浜市で誕生した。当時はバブル崩壊の真っ只中。日本が活気を失いつつある状況をひしひしと感じていた父・周作さんが「長男には日本にとどまらず、海外へ出て頑張ってほしい」と願い、「航」と名付けたという。今やその命名通りの人生を歩んでいるのだから、両親も驚いているのかもしれない。
南戸塚小学校時代は少年団、南戸塚中学校時代も部活動に入るなど、エリート街道とはかけ離れた少年時代を過ごしていた遠藤航。大きな転機となったのが、中3夏の湘南での練習参加だ。「僕はそれまで湘南に関する知識が全くなくて、レジェンドの坂本紘司さん(現湘南社長)の存在さえ知らなかった」と本人は苦笑したことがあったが、そこで出会った曺貴裁監督から「将来性ある素材」と太鼓判を押され、湘南ユースに進むことになった。
そこからの成長ぶりは凄まじかった。早生まれの利点を生かして高校2年だった2009年秋に参加した新潟国体で神奈川選抜の優勝に貢献。U-16日本代表入りを果たし、エリート街道の一歩を踏み出す。そして高3だった2010年には反町康治監督(日本サッカー強化前技術委員長)率いる湘南トップチームに呼ばれ、9月18日の川崎フロンターレ戦でJ1デビュー。名古屋グランパスがリーグ初制覇を決めた11月20日のゲームでは、17歳のDFが名古屋エースFWジョシュア・ケネディを完封。タイトルを掴んだ相手よりも注目を浴びたと言っていいほどだった。
「『まだ華奢だけど、J2なら使える若手がいる』と僕はよく話していました。『J1は少し早いかもしれない』とも言ったけど、ソリさんは使いましたね」と曺貴裁監督は感慨深そうに語ったが、反町監督のお眼鏡に叶った遠藤航はここから不動のレギュラーを確保。曺貴裁監督がトップチームの指揮を執り始めた2012年にはキャプテンマークも託された。
「航はPKを外して負けたり、退場して泣いたりと、重責を担って心を痛めながらも成長していった。自分の立場をきちんと理解できる彼なら、キャプテンという役目を渡していいと僕は思った。『先輩の顔色を見ないとできないよ』っていう人間じゃなかったですからね」と曺貴裁監督は抜擢理由を説明していたが、当時の彼はまだ19歳だ。それだけ人間的にも成熟し、周囲から信頼されていたということなのだ。
湘南から浦和、欧州へと渡った理由「ボランチとしてのプレーを突き詰めていくべき」
U-16から年代別代表も常連になったが、そこでも常にリーダー役を任された。だが、U-20ワールドカップ(W杯)は2度続けてアジアで予選敗退を強いられ、世界の扉をこじ開けることができなかった。だからこそ、2016年リオデジャネイロ五輪だけは絶対に出場しなければならなかった。同年1月のAFC・U-23選手権(カタール)はかなり厳しいと見られていたが、日本は決勝トーナメントでイラン、イラク、韓国を次々と撃破。王者に輝き、本大会切符を手にした。キャプテンも安堵感を吐露した。
それと同じタイミングで、彼はさらなる飛躍を期して浦和レッズへの移籍を決意する。湘南ではJ1とJ2で行ったり来たりを繰り返していたが、浦和へ赴けばタイトルを狙える。高みを追い求める男にはどうしても必要な選択だったのだ。涙ながらにそう訴えられた当時の湘南社長・眞壁潔氏(現会長)は、彼を引き留めることができなかったという。
実際、浦和では2016年J1第2ステージ、YBCルヴァンカップ、2017年AFCチャンピオンズリーグ制覇を経験。念願のタイトルを手にすることはできた。だが、本人は3バックの一角で起用されることに戸惑いを覚えていた。
「代表ではボランチを主戦場にしているのに、クラブに戻るとDF。世界を視野に入れると自分はボランチとしてのプレーを突き詰めていくべきなのに、それができないのは確かに難しい状況ではあります」と当時の遠藤航はしばしばこう発言していた。
リオ五輪前年の2015年から呼ばれるようになったA代表で長谷部誠(フランクフルト)、山口蛍(神戸)、柴崎岳(鹿島)らの牙城を崩しきれなかったのも、それが1つの要因になっていた。結局、2018年ロシアW杯もメンバー入りは果たしたものの、出番なし。練習では右サイドバックで使われることもあったほど、遠藤航の立ち位置は宙ぶらりんな状況だった。
苦境を打破するためにも、海外挑戦が必要だと彼は感じたのだろう。ロシアW杯直後の2018年夏にベルギー1部のシントトロイデン移籍を決断。冨安健洋(アーセナル)、鎌田大地(ラツィオ)と1年間共闘するなかで、遠藤もボランチとして確固たる地位を築くことに成功する。この活躍が評価され、翌19年夏にはドイツ2部・シュツットガルトへ移籍。2部とはいえ、欧州5大リーグに続く地位のリーグに足を踏み入れたことで、彼自身も目を輝かせていた。
だが、最初はなかなか出番を得られない。日本代表に戻ってくるたび、メディアから「試合勘は大丈夫か」と聞かれるほどだった。けれども遠藤航は全く動じなかった。
「移籍当時の(ティム・ヴァルター)監督は僕の合流が遅れたことでどんな選手なのかもよく理解していなかったと思います。でも『試合に出られないから、もういいや』と投げやりになるのではなく、チャンスが来た時のために準備を怠らずにやり続けることが大事。『どうしたら試合に出られるのか』『自分に足りないものは何か』を真剣に考えた最初の3か月間は決して無駄ではなかったですね。その後、親日家の(ペッレグリーノ・)マタラッツォ監督が来たのはラッキーだった。でもサッカーに対する自分自身のスタンスは変わりませんでした」と本人は常に100%の力を出して練習・試合に臨んだことで、道が拓けたと明かす。
シュツットガルトで地位確立、リバプール移籍で父・周作さんに最高の親孝行
そこからキャプテンにも任命され、存在感を高めていった彼はチームの1部昇格請負人として躍動。2020年夏には念願の1部でのプレーを現実にする。その20-21シーズンにはリーグ最多デュエル勝利数を記録。チームの残留に貢献し、翌21-22シーズンも2年連続デュエル王に君臨。最終節のケルン戦では遠藤航自身のゴールでチームの逆転残留を決めるという大仕事も果たした。
さらに22-23シーズンはアンカー、インサイドハーフのみならず、トップ下に近い役割も担うことも増え、より攻撃的なMFとして目覚ましい働きを見せる。「航は何でもできるし、本当にクオリティーが高い」と2022年1月に移籍してきた原口元気(シュツットガルト)も最大級のリスペクトを口にしていた。同シーズンのシュツットガルトは最終的に16位を死守。ハンブルガーSVとの入替戦で残留を決めたが、これもキャプテンの獅子奮迅の働きによるところが大だった。
欧州クラブでの大躍進によって、2018年夏に発足した森保ジャパンの位置付けも一気にアップ。当初は「柴崎の次」という位置付けだったが、21年東京五輪の頃には「不可欠なボランチ」となり、オーバーエージ枠で2度目の五輪に呼ばれるに至った。そして22年カタールW杯アジア最終予選でも重要な役割を担い、吉田麻也(LAギャラクシー)不在の22年1から2月の中国・サウジアラビア2連戦でキャプテンとしてチームを引っ張った。
本大会直前には脳震盪に見舞われ、W杯参戦が危ぶまれたが、ロシアでの悔しさを晴らしたいという不屈の闘志もあって奇跡的回復を遂げ、ドイツ・スペイン相手にボール奪取力や球際の強さで強烈なインパクトを残す。両大国からの歴史的勝利がクロップ監督の目に留まり、リバプール移籍のきっかけになったと言っていいだろう。
そして2023年夏に引っ張られた最高峰クラブでも、最初はシュツットガルト移籍当初と全く同じような立ち位置を余儀なくされながら、変わらぬスタンスを貫き、指揮官の信頼を勝ち取った。それこそが、恩師・曺貴裁監督の言う「自己解決能力の高さ」なのだろう。31歳になった日本人ボランチがここまで不動の地位を確立するとは一体、誰が想像しただろうか。さまざまな紆余曲折を大きな力にできるこの男は、やはりただ者ではない。
「プレミアリーグに行くまで現地観戦には行かない」と話していた父・周作さんに最高の親孝行ができたであろう遠藤航。最高の息子、最高のボランチの成長はまだまだ続いていくはずだ。
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)
元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。