吉田麻也と同期の快足DFが直面した挫折 CB転向を救った元日本代表キャプテンとの出会い【インタビュー】
【元プロサッカー選手の転身録】酒井隆介(京都ほか)前編:名古屋U-18では吉田麻也と同期…レベルの差を痛感
世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生を懸けて戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「FOOTBALL ZONE」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。
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今回の「転身録」は、京都サンガF.C.、松本山雅FC、名古屋グランパス、FC町田ゼルビアでプロとしてJリーグ通算240試合に出場した酒井隆介だ。前編では、現在M&Aスターキャリア株式会社でサラリーマンとしてセカンドキャリアを歩んでいる快足DFに、現役時代の思い出を振り返ってもらった。(取材・文=河合拓)
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2023年に30周年を迎えたJリーグ。30年前、子供たちは輝かしく始まった新しいスポーツのプロリーグに憧れ、ボールを蹴り始めた。1993年当時、5歳だった酒井隆介も例に漏れず、「テレビで開幕戦を見て、幼稚園で友達とボールを蹴っていた記憶がありますね。ゴリゴリに影響を受けました」と、Jリーグの開幕と同時に始まった自身のサッカーキャリアを回想する。
地元のスポーツ少年団である小津イレブンフィーバーズSSSに仲間で集まり、ボランティアコーチの指導を受け、守山市立守山南中学校に進学してもサッカー部に入部した。酒井の代の守山南中には偶然、いい選手たちが集まっていたこともあり、中学3年生の時には全国中学校サッカー大会にも出場できた。この大会で名古屋グランパスU-18のコーチがチームのエースストライカーだった酒井のプレーを見て、練習参加を勧めてくれたという。
「まさか見られているとは思わなかった」と言う酒井だが、練習参加した際のプレーも認められて「ぜひ入団してほしい」と、正式に名古屋U-18に加わることになった。
自信を持って名古屋U-18に加入した酒井だったが「練習参加の時のことはあまり印象に残っていないのですが、入団した最初はヤバかったです。あまりにレベルが高くて練習についていけなくて『この3年間でサッカー人生が終わるかも』と覚悟しました」と、当時を振り返る。
それも無理はないことだった。酒井の年代の名古屋U-18では、のちに日本代表のキャプテンとなるDF吉田麻也をはじめ、GK長谷川徹、FW新川織部、MF福島新太の4選手が3年後にトップチームに昇格。最終的には酒井を含め、8人がJリーガーになっている当たり年だったのだ。
現在も米メジャーリーグサッカー(MLS)のロサンゼルス・ギャラクシーでプレーしている吉田については、「当時から僕たちとは一段も二段も上を見ていました」という。
「ずっと『将来はプレミアリーグでプレーする』と言っていて、そのために英語を学んでいたり、食べ物でも栄養に気を使っていたり、身体のトレーニングをちゃんとやっていたりしていました。僕は名古屋でトップチームに昇格することを目指していましたが、麻也はプレミアリーグで活躍することを目標にしてやっていたので、今思えば普段の過ごし方から違っていましたね。真似もしていたのですが、やっぱり意識レベルで突き詰め方が違っていたので差が出てしまいましたね」
京都からのオファーにプロ入りを即決した“意外な理由”は?
FWとして名古屋U-18に加入した酒井だったが、チームは1トップのシステムを採用しており、FWにはポストプレーを得意とするタイプが求められた。このチームには年代別の日本代表にも選ばれており、名古屋U-18から明治大に進み、ジェフユナイテッド市原・千葉に加入するFW久保裕一がいた。酒井は2年生の時、「腕が短いからFWとしては大成しないぞ。サイドバックをやってみないか」と監督に言われ、サイドバックにコンバートされることになった。
高校3年時には高円宮杯全日本ユースU-18で準優勝したが、酒井は目標としたトップチームに昇格することはできなかった。
「メンタル的にも僕は弱くて、トップのキャンプにも参加させてもらったのですが、当時の名古屋のトップチームには秋田豊さん、楢﨑正剛さんら錚々たる顔ぶれがいたんです。秋田さんから強いパスが来た時に、緊張し過ぎていて一発目でトラップミスをしてしまって……。トップに行った4人は、しっかりと自分の力を発揮できていたと思います。僕は吉村圭司さんと同部屋だったのですが、ずっと慰めてもらっていましたね。本当に圭司さんにはお世話になりました」
メンタル面を鍛えること、そして自分の持ち味であるフィジカルを生かすこと。その2つの目標を掲げ、酒井は大学サッカー界の名門である駒澤大の門を叩いた。
「やっぱり上手い選手がたくさんいるなかで、どこで違いを出さなきゃいけないかと考えたら、やっぱり自分はフィジカルを生かして生き残っていくしかないと思いました」
駒澤大に入った直後にも、酒井は衝撃を受けたという。
「環境面でも、サッカーでも、ある程度は覚悟を持って行ったのですが、『ここまで徹底するのか』と衝撃を受けて、また『俺はやっていけるのかな』というところから始まりましたね」
同学年にはガンバ大阪へ加入するDF金正也やMF金久保彩ら、Jリーグ入りする選手が6人いた駒澤大時代には、4年時に総理大臣杯も制している。酒井には当時J1だった京都(2010年にJ2降格)からオファーが届いていた。意外な理由から酒井はプロ入りを「即決」したという。
「前の年のキャプテンが『絶対にプロに行くだろう』と思われていました。実際にオファーもあったのですが、契約を交わす前に評価していた強化部長と監督が解任になって、オファー取り消しになっていたんです。それで、なかなかプロ入りが決まらなくなって。そういうのも見ていたので、オファーをもらった時点で即決しました。契約を結んでしまえば、覆らない。プロになれることは確定すると思ったので」
実際、2011年に京都でプロサッカー選手になった酒井だったが、誤算があった。酒井が契約を結んだ際、京都は駒澤大のようにロングボールを使うサッカーを取り組んでいた加藤久監督が率いていた。ところが、酒井がプロになるタイミングでは、パスサッカーを標榜する大木武監督がチームの指揮を執っていたのだ。
森岡隆三コーチとの出会いがプロとして生きる道を切り開く
そして、高校、大学の初日に心を折られていた酒井は、プロでも心を折られることになる。
「大学ではフィジカルを鍛えてきて、そこにだけは自信があったのですが、練習からそれまでと違う筋肉を使っているのが分かって。身体が悲鳴を上げたんです。プロでやってきた選手たちは、なんともなかったんですよね」
さらにボール回しでも、レベルの違いを痛感させられたという。
「工藤浩平さんに衝撃を受けましたね。天才過ぎて……、いや、これがプロかと。普通のロンドみたいな4対2のボール回しをしていたんです。自分は下手くそで、ずっと中をやっていたのですが、浩平さんのボールを取りに行ったんですよ。ジャストのタイミングで取りに行って、『取れた!』と思って足を出したら、浩平さんはバックステップを踏んでボールをうしろに流して、僕の足の届かない位置までボールを引いて、何もなかったようにパスを出したんです。そのプレーは、今でも衝撃的すぎて……。『こういう人たちを相手にしないといけないのか』『どこまでサッカーできるか、分からないな』と、また絶望的な気分でスタートしました」
サイドバックとして京都に加入していた酒井は、1年目にJ2リーグ戦28試合に出場した。しかし、大木監督の志向するつなぐサッカーにハマっている感覚を得られなかったという。そして2年目になると大木監督は、よりボールをつなげるボランチの安藤淳をサイドバックにコンバートし、酒井はポジションを失った。ルーキーイヤーの出場試合数の4分の1で2年目を終えると、3シーズン目にはセンターバックにコンバートされる。
そこで大きかったのが、2002年の日韓ワールドカップの時の日本代表キャプテンであり、「フラット3」の中央を務めていた森岡隆三コーチとの出会いだった。
「師匠というか、大恩師なのですが、サッカーとは何か、ディフェンスとは何かをイチからみっちりと教わりました。練習が終わってから1試合を丸々通して3時間くらい指導してもらったり、居残り練習も1時間、2時間は当たり前、本当に付きっ切りで教えてもらい、面倒を見てもらいました。身体の向きから、ラインの上げ下げまで教わりました」
コロナ禍で失われたサッカーへの情熱
初めは自信がなかった酒井だが、ラインを高く上げる大木監督の戦術の中で、持ち前のスピードを生かして裏のスペースをカバーし、ラインを上げ下げして相手FWと駆け引きをすることで、すぐに楽しさを感じていったという。
4年目には累積警告による出場停止の1試合を除くリーグ戦41試合に出場。そして、オフには当時J1の松本山雅FCに移籍した。J2に降格して迎えた松本での2年目で出場3試合と出番が激減したなか、ユース時代を過ごした名古屋からオファーが届く。
「プロになれた時と同じくらいの嬉しさがありました。もう一度、名古屋でプレーすることを目指してやっていた部分もありましたから。在籍した2年間、なかなか力にはなれませんでしたが、本当に感慨深いものがありました」
高校、大学、プロと酒井はステップアップするたびに衝撃を受けながらも、自分の居場所を作り出していった。名古屋での2シーズン目、プロとして7シーズン目を終えたあと、FC町田ゼルビアからのオファーが届く。2018年に加入した町田で待っていたのは、これまでとは違った衝撃だった。
「その時は、僕のプレースタイルと相馬直樹監督のサッカーが本当にマッチしていました。ただ、名古屋から来て『天と地』というと語弊があるかもしれませんが、環境の差が、とてつもなくありました。名古屋の環境を見てきたあとで、町田の選手たちのひたむきさを目の当たりにして、『どうしてこんなに頑張れるのか』と驚いたんです。そういう選手たちに引っ張られて、僕も活躍できたのですが、本当に『何がそこまで突き動かすの?』と思うくらい、魂を込めてサッカーをやっていました」
今シーズン、初のJ1昇格を果たして、いきなり首位に立っている町田だが、当時はクラブハウスやスタジアムが基準に満たずに、J1に昇格するライセンスも得られていなかった。
2018年10月には、株式会社サイバーエージェントが町田の経営権を取得。ここから一気に町田の環境は改善していった。中心選手としてプレーするとともに、自身の経験を後輩たちに伝えていた酒井だったが、2021年シーズンが終わった時にクラブからは契約満了を告げられる。日本のみならず、世界中が新型コロナウイルスに苦しんでいた時期であり、試合は開催されず、リーグ再開後もスタジアムから観客の声援が消えたままになった時期だ。
「2020年、21年あたりは先発を外れてベンチになったり、メンバー外になっても、『試合に出るんだ』という気持ちが全然、湧いてこなくなっちゃったんです。それまではスタジアムにサポーターの声援があって、独特の雰囲気があって、心に熱く来るものがありましたが、コロナ禍でそれがなくなってしまった。スタンドやベンチで試合を見ながらも、『ピッチに立ちたい』という奮い立つ気持ちは出てこなかったんです。町田との契約が満了になった時も、まだ身体は動くと思った一方で、気持ちがついてきていなかったから『これはもう次に行ったほうがいいのかな』と判断して、引退を決断しました」
2021年に33歳で引退を決断した酒井は、クラブのJ1昇格に選手として立ち会えなかった。それでも、「自分の経験を伝えることができたと思っていますし、少しは昇格の力になれたのかなと自分では思っています」と言う。
2023年、町田はJ2優勝とJ1昇格を果たしたが、全く異なる世界で酒井も結果を出していた。
(文中敬称略)
[プロフィール]
酒井隆介(さかい・りゅうすけ)/1988年9月7日生まれ、滋賀県出身。名古屋U-18―駒澤大―京都―松本―名古屋―町田。J1通算44試合4得点、J2通算196試合7得点。スピードを生かした対人プレーに定評があり、センターバック、サイドバックでプレー。ビルドアップやタイミングの良い攻撃参加で貢献した。
(河合 拓 / Taku Kawai)