V川崎、横浜Mベテランが「涙腺崩壊」 31年前J開幕の国立で何が?…キックオフ直前の舞台裏【コラム】

1993年5月15日、V川崎と横浜MのキックオフでJリーグが幕を開けた【写真:Getty Images】
1993年5月15日、V川崎と横浜MのキックオフでJリーグが幕を開けた【写真:Getty Images】

V川崎対横浜MでJ開幕、1993年当時のベテランが抱いたプロリーグ誕生への思い

 チアホーンの音が響き渡る超満員のスタンドの下、試合に臨む選手たちの胸はいっぱいだった。「いよいよだな」。ヴェルディ川崎の守備の要、加藤久が声をかけた。振り返った横浜マリノスの水沼貴史の目に涙があふれた。1993年5月15日、新しい時代は国立競技場で幕を開けた。ヴェルディとマリノスのJリーグ開幕戦、ただの試合ではない。日本サッカーが変わる、新しい歴史への第一歩だった。(文=荻島弘一)

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 Jリーグ発足時のチーム数は10。毎節同日に5試合が行われたが、開幕戦だけは特別だった。セレモニーを含めて1試合を「J開幕戦」として5月15日に「聖地」国立競技場で行い、翌16日にほかの4試合が開催された。特別な試合に選ばれたのがヴェルディとマリノス。当時、この2チームが突出した存在だったからだ。

 Jリーグ開幕までの10年間、日本サッカーを席巻したのは読売クラブと日産自動車だった。読売はプロを目指す日本初の「クラブチーム」として69年に発足。追いかけるように、日産は72年に創部した。

 東京都リーグBから出発した読売は78年に日本リーグ1部に昇格、神奈川県リーグ2部からの日産も79年に同1部入りを果たした。83年の日本リーグで読売が初優勝を果たすと、91-92年まで9シーズンで読売5回、日産2回優勝。83年度に日産が天皇杯を初制覇すると、以後92年度まで10大会で日産6回、読売3回制覇。J開幕前までの10年間は、ほとんどのタイトルを両チームが分け合っていた。

 企業チームが全盛だった時代、プロの読売は異端だった。試合だけでなく、私生活も自由奔放だった。ファッションでも、遊びでも、発言も、それまでの型にはまらない魅力があった。その読売に追いつけ追い越せだったのが日産。企業チームの枠を飛び超えたプロのクラブを目指し、社員だった選手も次々とプロになった。

 人気も実力も圧倒的な「2強」。個性あふれるタレントを揃えた両チームの台頭で、日本リーグも観客数が増加した。数年前までは人数が数えられたスタンドが、Jリーグ開幕が近づくとファンで埋まった。93年元日の天皇杯決勝は、両チームの黄金カードに国立競技場が満員になった。開幕戦直前のワールドカップ(W杯)アジア1次予選には三浦カズ、ラモス瑠偉、松永成立、井原正巳ら両チームから5人ずつが代表入り。アマからプロへ、日本リーグからJリーグへ、読売と日産はその象徴的な存在でもあった。

 涙していた選手たちには、日本サッカーをプロリーグへと引っ張ってきた自負があった。「あれがプロ化の始まりよ」と木村和司が言うのは、85年10月のW杯アジア最終予選韓国戦。初のW杯出場を夢見たファンが、国立のスタンド最上段までを埋めた。木村が「伝説のフリーキック」を決めたものの、結果は1-2の力負け。ソウルでの第2戦も0-1で敗れて、一瞬の夢は夢のままで終わった。

 韓国はすでにプロだった。Jリーグより10年早い83年にプロリーグが発足。急激に力をつけたライバルに圧倒され、監督の森孝慈も選手たちも「プロにならないと、韓国には勝つことはできない」と感じていた。しかし、当時の日本協会はプロリーグどころかプロ選手の存在さえ認めていなかった。

プロだった韓国との差を痛感…強まった夢のプロリーグへの思い

 森はW杯まであと一歩と迫った選手のために協会にボーナスを求めたが、答えはもちろん「ノー」だった。それでも、熱意に負けた長沼健専務理事が身銭を切った。1人わずか数万円だったが「額は関係ない。初めてボーナスを出してくれたことが嬉しかった」と木村は歴史的な「報奨金」を振り返った。

 主将として守備の中心だった加藤も「あの試合でプロが必要だと痛感した」と話す。当時の代表は、加藤とともに松木安太郎、都並敏史ら読売勢が最終ラインを組み、木村と水沼、柱谷幸一ら日産勢が攻撃の主軸だった。「プロ化」は韓国との力の差を体感した現場の願い。特に代表の中心でチームもプロ化を標榜していた読売と日産の選手たちは、その思いが強かったのだろう。

 翌86年、ドイツのブレーメンから古巣の古河電工に移籍した奥寺康彦とともに、木村が新設された「スペシャルライセンスプレーヤー」として協会に選手登録。公式に認められた国内初のプロ選手となった。87年には読売、日産を中心に多くの選手が登録を「プロ」に変更。アマチュアリーグにプロとアマが混在するようになった。

 さらに88年3月には日本リーグに「活性化委員会」が発足。プロリーグ創設への歩みがスタートした。まだまだ「プロ」への拒否反応は強かったが、翌89年には日本協会内に「プロリーグ検討委員会」が設置されて一気にプロ化が加速した。91年2月には参加10チームが決定。もちろん。ヴェルディもマリノスも名を連ねた。

 公式にプロとして認められてから、木村は「プロの重圧」に苦しんだ。怪我にも悩まされた。不振に陥って、代表からも外れた。それでも踏ん張れたのは、プロリーグ発足が決まったから。「ヴェルディとの開幕戦のピッチが目標だった」。満身創痍の「ミスター日産」を支えたのは、夢のプロリーグへの思いだった。

 木村とともに、水沼も開幕のピッチを夢見ていた。80年代の日産黄金時代と日本代表を牽引した2人は、すでに全盛期を過ぎていた。今ほど選手寿命が長くなく、30歳を超えれば「引退」がちらつく時代。木村は34歳、水沼は32歳。若手の台頭もあってシーズン前の練習試合でも出場機会も減っていた。各メディアの「スタメン予想」から外れることもあった。

「出場が決まった時は嬉しかった。そのために頑張ってきたから」と水沼は振り返る。試合前、スタンド下で流した涙。「試合で泣いたことなんかないけれど、あの時は特別」。84年の日韓戦ではアウェーで初めて韓国を破る決勝ゴールを決めたが、85年のW杯予選は屈辱にまみれた。プロだった韓国との差を感じ、プロリーグ誕生を思い描いてきた。だからこそ、涙腺が崩壊した。

 マリノスの清水秀彦監督は「特別な試合だからこそ、彼らの力が必要になる」とベテランを起用した理由を説明した。水沼も「日本サッカーが変わるきっかけ」という85年W杯予選に順大から参加した平川弘はのちに日産入り、本田技研所属だった勝矢寿延も開幕前に移籍し、夢の舞台に立って勝利に貢献した。

V川崎との開幕戦で清水監督の期待に応えた木村と水沼

 31年前のJ開幕戦、先制点こそヴェルディのマイヤーに決められたが、マリノスは後半に逆転する。得点者はブラジル出身のエバートンと元アルゼンチン代表のディアスだったが、いずれのゴールにも木村や水沼が絡んだ。清水監督の期待に、ベテラン勢が応えた。

 エバートンのゴールは、木村のコーナーキックから生まれた。「エベ(エバートン)が、ボールをくれとうるさいから」と照れ隠ししたが、正確なキックを警戒するヴェルディの守備の裏を突いた頭脳的なショートコーナー。「気がついとったのはラモスだけ。あとはボーっとしよった」。ノーマークのエバートンが同点ゴールを突き刺した。

 ディアスの決勝点も演出した。井原正巳の縦パスを木村が頭で落とす。「ワシはヘディングせんから、(マークの)都並(敏史)も驚いとった」。ピタリのタイミングで走りこんだ水沼がDFを突破し、強烈なシュート。「絶対に決めてやろうと。決まらないのが僕らしいけど」と、日本リーグでアシスト記録も作った名手は笑った。ディアスはGKが弾いたボールを押し込むだけ。半分は2人のゴールと言っていい。

 ヴェルディの選手たちも、特別な思いだった。木村とともに80年代の日本サッカーを支えた加藤や85年W杯予選韓国戦に出場した都並も涙していた。木村の伝説のFKにつながるファウルを誘った戸塚哲也もベンチ入り。77年に来日したラモス、90年に帰国してサッカー人気を牽引してきたカズも気持ちを高ぶらせていた。

 マリノスで中堅以上の選手はみな社員だった。ヴェルティの選手も異色の経歴。加藤は助教授として早大での仕事を続けていたし、本田技研から加入した北澤豪は工場のラインで働いていた。それぞれが苦労をしながらプロを目指してきた。だからこそ、この試合にかける思いは強かった。それが涙となった。「プロ」が当たり前ではない時代だったからこそ、J開幕戦は日本サッカーにとって特別な舞台だった。

「ヴェルディがJ1に帰ってきてほしいと思ったし、昇格が決まってからはマリノスとの試合が楽しみだった」と水沼は言う。93年の開幕戦をスタンドで見つめていた3歳の長男宏太が、今度はマリノスの一員としてヴェルディと対戦する、「もちろん宏太が出てくれて、活躍すれば嬉しいよ」。31年前に涙でピッチを踏んだ水沼が、今度は国立競技場の放送席で解説者として息子の試合を見届ける。

 ヴェルディのJ1復帰で実現した開幕カード。ヴェルディは長い期間低迷してきたが、マリノスも苦しい時期がなかったわけではない。J発足時の10クラブのうち鹿島アントラーズとともにJ2に落ちたことはないが、降格のピンチもあった。「マリノスもずっと強かったわけではないので」とGKコーチの松永成立は話した。

 85年に日産入りした松永は黄金時代の守護神として活躍し。伝説の開幕戦ではJ第1号の勝利GKになった。日本代表でも長くプレーし、開幕から5か月後の「ドーハの悲劇」のGKとしても知られる名GK。「(木村)和司さんや(水沼)貴史さんほどではないかもしれないけど、(涙を)こらえるのが、大変だった」と振り返る。「あの試合は特別。あのピッチに立てたことが幸せだった」と話した。

31年前のJ開幕戦に出場した松永が語った思い

 95年に鳥栖フューチャーズ(現サガン鳥栖)に移籍するまで選手として11年、07年にGKコーチとして古巣に戻ってから18年目。日産時代を含めマリノスで30回目の開幕戦になる。誰よりも長く現場でチームを関わるだけに「いい時もあったし、苦しい時もあった」の言葉は重い。

 日本リーグで10年間続いた「2強」の構図は、Jリーグで変わった。3年目の95年に優勝を争ったのを最後に、ともに低迷。ヴェルディは06年にJ2降格、一度はJ1に戻ったが、09年からは再びJ2だった。マリノスも95年の後は優勝から遠ざかった。岡田武史監督の下で03、04年に年間優勝を果たすが、その後は再び中位をさまよった。

 マリノスが本来の攻撃的なスタイルを取り戻し、上位に顔を出したのは18年にアンジェ・ポステコグルー監督(現トッテナム監督)が就任してから。19年に15年ぶり優勝を果たすと、その後は優勝争いの常連になった。最後尾からの視点でチームを見続けてきた松永は「やっとマリノスらしいサッカーができてきた」と話し、ハリー・キューウェル新監督の指導に「攻撃の幅が広がるのではないかと楽しみ」と言った。

 あの日、歴史的な試合をした選手たちは、それぞれの立場でサッカー界と関わっている。監督やコーチ、解説者……。唯一の現役選手としてポルトガルでプレーを続けるカズも「あの試合は特別だった。忘れられない」と話したことがある。松永はピッチサイドから、水沼は解説席から試合を見る。長く取材する記者も、往年のファンも、国立競技場に集まるだろう。
 93年開幕戦を知る選手は、ほとんどいない。それでも、チームの歴史、Jリーグ歴史は伝え聞き、分かっているはず。環境が変わって「プロ」は当たり前になった。舞台となる国立競技場も新しい姿になった。それでも、涙した先人たちの思いは伝わる。特別な試合になる。

「だからこそ」と言って、松永は続けた。「マリノスとヴェルディの試合を懐かしむだけでなく、ここから新しい歴史が生まれてほしい」と言った。あの日、親に連れられてサッカーに夢中になった子供が、今度は親として子どもと一緒に観戦するかもしれない。その子供がJリーグの虜になり、それをつないでいけば。5・15からの2・25は大きな意味を持つ。(文中敬称略)

(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)

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荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

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