日本代表なのに「誰?」「分からない」 無名ボランチ抜擢→アジア杯Vで“影のMVP”に【コラム】

1992年大会で躍動した森保一(上段右から2人目)【写真:Getty Images】
1992年大会で躍動した森保一(上段右から2人目)【写真:Getty Images】

アジアカップ回顧録、無名MFが初のアジア王座に就いた1992年大会で躍動

 アジアカップが1月12日にカタールで開幕。4年に1回、アジア王者を決める大会で、日本は最多5度目の優勝を目指す。過去、さまざまなドラマがあったなかで、アジアカップ回顧録の最終回として、初のアジア王座に就いた1992年大会で「影のMVP」として躍動した人物を振り返る。新聞記者さえも情報を掴んでいなかった無名の男は、大会中にその存在感を一気に際立たせていた。

 初のアジア制覇、大会MVPに選ばれたのはFWカズ(三浦知良)だった。準決勝進出を決めたイラン戦の劇的決勝ゴール、決勝サウジアラビア戦の決勝アシスト、全試合にフル出場し、圧倒的な存在感を示した。ダイナスティ杯に続くMVPに異論はなかった。もっとも、記者の間では「影のMVP」に森保一を推す声が挙がっていた。

 恥ずかしながら半年前までは知らない選手だった。ハンス・オフト監督就任後、キリン杯に向けてチームが始動したのはこの年の5月25日。静岡で行われた合宿、ミーティングを終えてピッチに出てきた選手に聞かれた「森クンって誰?」。マツダ(現サンフレッチェ広島)のMFということ以外、ほとんど情報はなかった。「ごめん、分からない」。記者として失格だと言われるだろうが「モリヤス」と読むことさえ知らなかった。

 3月に就任したオフト監督は、最後の日本リーグ(JSL、秋春制で92年3月末終了)を精力的に視察。選んだ代表メンバーは、読売クラブ(現東京ヴェルディ)、日産FC(現横浜F・マリノス)、ヤマハ(現ジュビロ磐田)らリーグ上位チームの選手が多かった。都並敏史(読売)、勝矢寿延(日産)、吉田光範(ヤマハ)らベテランが復帰するなか、オフト監督がかつて指導したマツダからは3人が初選出。GK前川和也、FW高木琢也、そして森保だった。

 最後のJSLの前年、90-91シーズンまでマツダはJSL2部だった。1部に復帰した最終シーズンも6位。上位の対戦しか取材対象にならなかった時代、高木はJSL新人王に輝くなどで知名度もあったが、長崎日大高時代に高校選手権にも出ていない森保は、全国的に無名と言ってもよかった。口の悪い記者は「オフト枠だろ」と言うほどだった。

 オフト監督の初陣キリン杯アルゼンチン戦は0-1で敗れたが、森保は代表デビュー戦で好プレーをみ見せた。当時は試合後、相手監督に「日本では誰が良かったか」を聞くのが定番だった。記者は人気選手の名があがるのを期待する。「本場に認められた」という見出しが立つからだ。ところが、バシーレ監督の答えは「17番(森保の背番号)」だった。「カズじゃないのか」と残念に思ったのだから、見る目がなかったことを猛省する。

 森保とポジションを争ったのは、横山謙三監督時代から活躍していたトヨタ(現名古屋グランパス)の浅野哲也だった。185センチで空中戦にも強く、長いパスも巧み、豪快なミドルシュートも武器にしていた。ダイナミックなプレーは、森保とは対照的。オフト監督も高く評価していたし、実際にダイナスティ杯ではレギュラーとして優勝に貢献していた。

相手の攻撃の芽を摘み、パスを確実に供給…日本の中盤に不可欠な存在に

 ところが、直前のナビスコ杯で負傷してアジア杯には招集されず。初戦のUAE戦から森保がフル出場を続けた。決して派手ではない。ロングフィードでFWを走らせることも少ないし、強烈なシュートもない。それでも、相手の攻撃の芽を摘み、パスを確実にラモスら攻撃陣に供給する。間違いなく日本の中盤を支えていた。

 評価を一気に高め、チームメイトの信頼を絶対的なものにしたのは、準決勝の中国戦だった。GK松永成立の退場で、MF北沢豪に代わって前川がGKに入った。運動量豊富な北沢の交代で森保の負担は一気に増えたが、相手の猛攻に耐え抜いて勝利につなげた。清雲栄純コーチは「あの試合は日本にとっても、森保本人にとっても大きかった。中国に勝てたのは森保の存在が大きかった」と振り返った。

 代償として大会2枚目のイエローカードをもらい、決勝のサウジアラビア戦は出場停止になった。「森保抜きで勝てるのか」と言われるほど、替えの利かない貴重な戦力になっていた。得点に絡む活躍こそないが、失点を防いだ貢献は絶大。名前すら正しく読んでもらえなかった無名選手は、半年経たないうちに日本代表の中心選手に成長していた。

 記者以上に「影のMVP」を評価したのは、カメラマンたちだった。「相手ボールになると、常に写りこむ」と驚きながら「ボールを持った写真がない」とも。抜群の読みでパスコースに入り、ボール保持者を追い込む。味方の位置を常に把握しているから無駄にボールを持つことなく、すぐにパスが出せる。そんな森保の能力の高さは、記者席から見ている以上にピッチ脇からのほうがよく分かったのだろう。

「影のMVP」森保は代表に欠かせない選手として1年後の「ドーハの悲劇」まで走り続けた。今と違って選手層も薄い時代。中1日、2日の連戦でも、選手を入れ替えるターンオーバーなど考えられなかったのだ。森保だけではなく、アジア杯のメンバーが、ほぼそのまま悲劇を体験した。

 オフト監督に大抜擢され、アジア杯で日本代表として覚醒した森保は、ファルカン監督、加茂周監督にも招集され、96年まで代表選手としてプレー。そして今度は日本代表の監督として2度目のアジア杯に臨む。92年11月、日本をアジアの頂点に導いた「影のMVP」が、再び目指すアジアの頂点。その先には32年前には夢にも思わなかった「新しい景色」が広がっている。

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荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

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