アジア杯初制覇は日本サッカー“メジャー化”への第一歩 カズ「あの大会がなかったら…」【コラム】

日本代表は1992年のアジアカップで初優勝【写真:Getty Images】
日本代表は1992年のアジアカップで初優勝【写真:Getty Images】

初優勝の過程でメディアが殺到…一気に注目を集めた広島開催のアジア杯を回顧

 アジアカップが1月12日にカタールで開幕。4年に1回、アジア王者を決める大会で、日本は最多5度目の優勝を目指す。過去、さまざまなドラマがあったなかで、アジアカップ回顧録の4回目として、初のアジア王座に就いた1992年大会によってメディア、ファンの間に起こったムーブメントを振り返る。それまで日本におけるサッカーは「マイナースポーツ」だったが、アジア杯が「メジャー化」への第一歩となった。

 アジアカップ(杯)初制覇に貢献したラモス瑠偉氏は「本当に日本サッカーが変わったのは1992年の広島アジア杯。ドーハの悲劇じゃない」と言う。カズ(三浦知良氏)も「あの大会がなかったら、日本サッカーの発展スピードは変わっていた」と話す。初めてアジアの頂点に立った大会は、単なる「スポーツ大会」ではなかった。

 大きく変わったのは、メディアの注目度だ。2か月前の8月、北京で行われたダイナスティ杯を取材したが、東京から来ている新聞記者などほとんどいなかった。前回の90年大会では無得点で3戦全敗。期待できない大会に記者を派遣する新聞社などなかったのだ。

「必ず優勝するから」とデスクを説き伏せて帯同したが、今風に「エビデンスは?」と聞かれたら答えられなかっただろう。まだまだ牧歌的な代表取材。郊外での練習後には、スタッフから「乗っていく?」と声をかけられ、代表のバスで監督や選手と談笑しながらホテルに戻った。そんな時代だった。

 ところが、アジア杯ではメディアの注目度が激変していた。まだJリーグ開幕前で、スポーツ紙を含めて新聞社の運動部に専属の「サッカー担当」は少なかった。それでも、ハンス・オフト監督就任後、初めての国内での公式大会とあって報道陣が殺到した。

 みなほかの「担当競技」を犠牲にしてくるようなサッカー好きの記者ばかりだから、劇的勝利の連続で記者席も盛り上がった。1次リーグを突破して準決勝進出が決まると、さらにメディアの数は増えた。ダイナスティ杯と比べても記事の量は数倍増。サウジアラビアを破って初優勝が決まると、新聞の1面になった。

 今でこそスポーツ紙の1面にサッカー日本代表が登場することなど珍しくもないが、当時としては異例だった。高校サッカーやトヨタ杯(現クラブ・ワールドカップ=クラブW杯)で1面になることはあっても、日本代表の試合が1面で扱われることはなかった。それが、純粋に試合結果だけで1面を飾ったのだ。メディアにとっても「大事件」だった。

 決勝翌日、カズに「1面だったね」と言われた。今もネットニュースを見ないというカズは当時から「新聞のスペース」を気にしていた。もちろん、1面で扱えば多くの人が注目する。サッカーを知ることになるし、W杯を目指していることも分かる。まだまだサッカーは「マイナー」だった。Jリーグ開幕前、アジア杯が「メジャー化」への第一歩だった。

テレビ放送にスタンドの変容…ほかにも一変した日本代表を取り巻く環境

 テレビ放送もされた。ダイナスティ杯はもちろん中継なし。日本では翌日の新聞で結果を知るのがやっとだったが、アジア杯は全試合NHKが生中継した。地上波の放送はなくすべてBS放送だったが、それだけでも大きな進歩だ。劇的な試合が多かったこともあって、この大会で日本代表のファンになった人も多かった。

 スタンドも変わった。びんご運動公園や広島スタジアムなど収容人数が少ない競技場も使われたが、勝ち進むごとに観客は増えた。準決勝、決勝には東京などからも多くのファンが詰めかけた。決勝では、ビッグアーチをファンが埋めた。決勝の公式観客数は6万人(収容人員は5万人だが)。過去の正確な記録は残っていないが、当時は代表戦史上最多だったかもしれない。

 スタンドでは、これまで見られなかった応援も繰り広げられた。選手のチャント(応援コール)が響き、「ニッポン」コールが止まらない。スタンドを巻き込んで選手を後押しした若本たちは後に「ウルトラス・ジャパン」というサポーター集団を結成。日本の応援文化が変わるきっかけにもなった。

 単純に日本代表が勝ったこと以上に、メディアの扱いが増え、ファンが増えたことが大きかった。それまで頂点を見ることさえできなかった日本代表が、初めてアジアチャンピオンになった。選手ら日本代表チームとともに、メディアにも、ファンにも「新しい景色」が見えていた。

 この2年前にブラジルから帰国し「日本をW杯に連れていくために帰ってきた」と言ったカズは「少しW杯が見えてきた」と胸を張った。半年前の就任会見で「W杯出場が目標」と口にしたオフト監督も「まだまだ満足していない」と予選を見据えていった。カズやオフト監督の言葉を半信半疑で聞いていたメディアやファンも、はっきりとW杯を意識した。アジア初制覇で見えた「新しい景色」の向こうに、まだ見ぬW杯が広がっていた。

 決勝から2週間後、ナビスコ杯決勝でカズやラモスを擁するヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)が、堀池巧、澤登正朗らの清水エスパルスを下して初代王者についた。天皇杯を挟んで、日本代表は翌93年2月にイタリア遠征、3月のキリン杯を経て4月からはW杯アジア1次予選を戦う。5月15日にJリーグが開幕し、10月にはアジア最終予選で「ドーハの悲劇」を味わう。日本サッカーが最も熱かった1年。そのスタートが92年広島アジア杯だった。

(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)

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荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

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