三浦カズとの2トップが「怪我の高木」 “ゴン中山推し”を呑まなかったオフト采配の真実【コラム】

日本代表をアジア杯初優勝に導いたハンス・オフト氏【写真:Getty Images】
日本代表をアジア杯初優勝に導いたハンス・オフト氏【写真:Getty Images】

アジアカップ回顧録、初のアジア王座に就いた1992年大会の舞台裏

 アジアカップが1月12日にカタールで開幕。4年に1回、アジア王者を決める大会で、日本は最多5度目の優勝を目指す。過去、さまざまなドラマがあったなかで、アジアカップ回顧録の3回目として、初のアジア王座に就いた1992年大会の舞台裏を振り返る。

 1992年11月3日、日本はアジア杯で初めての1次リーグ突破をかけてイランと対戦した。引き分けでも準決勝に進めるイランに対し、日本は勝たなければ敗退。祝日ということもあって、完成したばかりの広島広域公園陸上競技場(ビッグアーチ)のスタンドでは3万人を超すファンが試合を見守っていた。

 日本はイランの守備を崩せず、時間だけが経過していった。敗退が濃厚だった残り3分、攻め上がっていたDF井原正巳が相手最終ラインの裏にパスを出す。走りこんだカズ(三浦知良)が右足でシュート。ゴールが決まった瞬間、記者席も含めてスタンドは総立ち、スタジアムに地鳴りのような大歓声が響き渡った。

 1-0で勝利した日本は準決勝に進出。殊勲のカズは「魂を込めました、足に」と興奮気味に言った。のちに自伝のタイトルにもなった名言だ。

 エースの興奮は収まらなかった。「ファーを狙って蹴ったんだ。GKが弾いても、詰めていた誰から決めてくれるだろうから」。聞いていて、疑問が沸いた。決まったのはGKの肩口。いわゆるニアハイだった。「カズ、逆じゃない?」と聞くと、答えは「えっ、まあどこに決まったかはいいでしょ」だった。

 試合に関する記憶力は抜群で、ほとんどのゴールを鮮明に覚えているカズでさえ、説明ができないほど冷静さを失っていた。それほど劇的な一発。いや、カズだけではない。ほかの選手たちも、記者たちも、スタンドのファンも、興奮していた。その後、勢いに乗った日本代表は、一気にアジアの頂点に駆け上がることになる。

 中2日、11月6日の準決勝は、広島スタジアムで行われた。中国は2か月前のダイナスティ杯で快勝した相手で、選手も自信を持って臨んでいた。開始直後に失点したものの、後半に福田正博と北澤豪のゴールで逆転。しかし、直後にまさかのピンチに見舞われる。

 後半15分、GK松永成立が相手選手と交錯して退場。日本は10人で戦うピンチに立たされた。同25分に同点に追い付かれたあとも嫌な流れは変わらず。柱谷哲二、井原正巳の両センターバックも守備に追われた。

決勝前に自信たっぷりだったオフト、中山の活躍があるにもかかわらず…

 窮地を救ったのは、北朝鮮戦でも交代直後に同点ゴールを決めている「切り札」のゴン中山ことFW中山雅史だった。高木琢也に代わってピッチに立つと、前線からの豊富な運動量で日本の攻撃を活性化。残り6分、福田のクロスを頭で合わせて決勝ゴールを奪った。アジアの大会で初の決勝進出。2試合連続の劇的な勝利が、さらにチームを加速させた。

 決勝の相手は大会3連覇を狙うサウジアラビア。アジア最強国に対して、試合前は苦戦が予想されていた。守護神の松永が出場停止、さらに守備的MFとして全試合に出場していた森保一も累積警告で出場停止だった。もっとも、オフト監督は自信たっぷり。決勝戦前夜のホテルでニヤリと笑い、耳打ちしてきた。「大丈夫。高木が決めて勝つよ」。

 決勝に進んだとはいえ、苦戦の連続。サウジアラビアとは、まだ力の差があると思っていた。しかも、決勝ゴールは高木だという。ダイナスティ杯では得点王に輝いたが、調子は最悪だった。アジア杯に入ってからはノーゴール。代わって途中出場の中山が大活躍していた。オフト監督の自信の根拠が分からなかった。

 清雲栄純コーチは決勝前、オフト監督に聞かれている。「カズと組ませるFWは誰がいいと思うか」。同コーチは中山を推した。「高木の怪我が相当酷かった。対して中山は調子がいい。でも、スタメンは高木だったんだよ」と振り返る。オフト監督は高木を使い続けた理由を「広島の選手だから」と説明した。能力は一級品、地元の歓声を浴びれば、ここ一番で活躍できる。そう信じたからこそ、本調子には遠い高木を変えなかった。

 11月8日、日曜日のビッグアーチ。スタンドを埋めたファンの前で、日本は素晴らしい試合を見せた。松永に代わる前川和也が安定したプレーを見せ、森保に代わって守備的MFに起用されたラモスも中盤に落ち着きを与えた。試合は日本のペースで進んだ。

 前半36分、高木がオフト監督の起用に応える。カズが左から上げたクロスを胸でトラップ。落ち際を左足で蹴りこんだ。痛めていた足首をしっかり固定し、完璧なタイミングで放ったボレーシュート。その後も日本はゲームを支配し続け、この1点を守り切って初のアジア王座に就いた。

アジアの「中堅国」が「強国」に、「新しい景色」への序章に

 オフト監督は「これでW杯予選に自信を持って臨める」と半年後に迫っていた「本番」に向けて言った。就任からわずか半年で、周囲の予想をはるかに超える結果を出した。

 何よりも大きかったのは、W杯予選に向けてチームが1つになったことだ。ダイナスティ杯、アジア杯とオフト監督の采配は当たり続けた。

 ダイナスティ杯の韓国戦では相手のスタメン表を破り捨て「戦う相手は自分自身だ」と韓国コンプレックスを払拭させた。アウェーの中国戦に委縮する選手たちに「後半、スタンドは日本を応援する」と告げた。

 もともと南北で対抗意識が強い中国。南の選手が多い代表チームが北の北京で受け入れられないことを分かっていたのだ。アジア杯でも途中起用した中山が劇的ゴールを決め、信じて使い続けた高木が最後に結果を出した。誰もが「オフトについていけば、W杯に行けるかもしれない」と思い出した。

 就任以来対立を続けていたラモスとも雪解けした。役割を明確にし、細かいプレーまで要求する指揮官に「自由を奪われた」と抵抗したラモスだが、試合を重ねるうちに共通の目標「W杯出場」を通して理解し合えた。翌年W杯予選に臨んだのは、ほぼこの大会で固まった11人。アジア杯での5試合で「オフトジャパン」は完成した。

 GK松永、4バックは左から都並、柱谷、井原、堀池、ダイヤモンド型の中盤は守備的な位置に森保、左のラモス、右の北澤、トップ下の福田に加えて吉田が相手や展開によって起用された。2トップはカズと高木で中山がスーパーサブ。ベースとなるこの布陣は、ドーハで悲劇を味わうまでほぼ変わらなかった。

 もちろん、チームだけではなかった。日本代表、サッカーを取り巻く環境も激変した。アジアの「中堅国」が「強国」になった大会で、日本サッカーは「新しい景色」を見ることになった。

page1 page2

荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

今、あなたにオススメ

トレンド

ランキング