地元開催のアジア杯で得たオフトジャパンの“確信” 「日本サッカー史を変えた」寂しいスタート【コラム】
オフト監督の下でチームは激変
1992年10月、Jリーグ開幕を翌年に控え、第10回アジアカップが広島で行われた。過去にないほど上り調子だった日本代表だが、世間の期待はそれほど大きくはなかった。大会そのものの認知度も低かった。
この年の3月、日本代表の監督に初の外国人としてハンス・オフトが就任した。就任会見で言ったのは「目標はワールドカップ(W杯)出場」。五輪でさえ20年以上遠ざかっている日本にとって、W杯は夢のまた夢。目標として掲げるのはいいが、誰も本気には取らなかった。
1990年にカズことFW三浦知良がブラジルから帰国し、MFラモス瑠偉も日本国籍を取得して加わったが、簡単に代表が強くなるわけではなかった。2人が代表デビューした90年の北京アジア大会はベスト8止まり。91年のキリンカップでは優勝したが、あくまで親善大会。真剣勝負で結果を出したわけではなかった。
しかし、オフト監督はチームを短期間で激変させた。「アイコンタクト」「スリーライン」「トライアングル」などの基本を徹底させ、選手個々の役割を明確にすると、結果が出てきた。初戦となった5月31日のキリンカップ・アルゼンチン戦こそ敗れたが、7月のオランダ遠征を経て8月には来日したユベントス(イタリア)と2引き分け。確実にチームは前進していた。
最初の転機は8月末のダイナスティカップ(現E-1選手権)。韓国、中国、北朝鮮と東アジア王座を懸けて戦う大会だ。90年の前回大会は全敗だったが、北京で行われた大会で初めて頂点に立った。決勝では日本にとって高い壁だった韓国をPK戦で撃破。ベテランDF都並敏史が「韓国相手に初めて前を向いてプレーできた」と驚くほどの躍進ぶりだった。
UAE戦引き分けでメディアも含めて漂った「またダメか」の雰囲気
もっとも、アジアカップでは苦戦が予想されていた。東アジア王座には就いたものの、西アジア諸国は未知だった。当時はW杯や五輪のアジア予選が東(東アジア、東南アジア)と西(西アジア、南アジア)に分かれて行われることが多く、西アジアとの対戦経験が少なかったことも不安材料になった。
大会には開催国日本と前回優勝のサウジアラビアのほか、予選を突破した6か国が出場。4か国ずつ1次リーグを戦い、各組2位以内が準決勝に進出する方式だった。1次リーグで同組となったのがUAE、北朝鮮、イラン。UAEは日本が最終予選にさえ進めなかった90年W杯イタリア大会のアジア代表だし、イランは90年アジア大会の覇者。苦戦は必至だった。
選手の疲労も心配された。8月末のダイナスティカップで優勝した選手たちは9月5日からのナビスコカップ(現ルヴァンカップ)に出場。週2ペースで組まれた試合で身体はボロボロだった。さらに、アジアカップ自体も中1日で試合が続くハードな日程。今では考えられないが、決勝まで進めば10日間で5試合もしなければならなかった。
開幕を前に、オフト監督は「この大会はW杯予選のための準備」と強調した。ダイナスティカップの優勝で、その采配は「オフト・マジック」と言われ出してはいたが、各国の力を分析した結果なのか、決して「優勝を狙う」とは言わなかった。
初戦の相手はUAE。会場は尾道・びんご運動公園だった。公式記録の観客数は収容人数の1万人になっているが、実際は数千人。今と違って、日本代表戦とはいえファンの数は少なかった。もちろん、テレビ放送はなし。のちに「日本サッカー史を変えた」と言われる大会も、スタートは寂しいものだった。
もっとも、試合内容は素晴らしかった。結果は0-0だったが、UAE相手にラモスらが中盤を支配して決定的なチャンスを作り出した。相手GKの好守で得点にこそならなかったものの、W杯出場国を圧倒したことで選手は自信を深めていた。
ただ、周囲の反応は違った。初戦で強豪相手に引き分けるのは決してネガティブではない。今なら「好スタート」と言えるだろうが、当時の日本には「引き分け」の文化がなかった。内容的には圧倒でも「勝てなかった」というマイナスイメージ。選手たちは手応えを感じていても、メディアも含めて周囲は「またダメか」という感触だった。
2試合目の北朝鮮戦も1-1で引き分け。ダイナスティカップで快勝した相手に、終盤の中山雅史のゴールでなんとか追いつくという結果だった。勝たなければ1次リーグ敗退となる最終イラン戦。ここで、日本のエースが覚醒する。劇的なゴールと歴史に残る名言。日本サッカーの歴史が大きく動いた試合だった。
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。