今なお目に焼き付く“皇帝”の姿 ベッケンバウアーが体現した「勝った者が強い」の名言 【コラム】
“皇帝”は1月7日に78歳で逝去
「強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ」
自身の言葉を体現し続けた「皇帝」の生涯だった。元西ドイツ代表主将でドイツサッカーの象徴とも言えるフランツ・ベッケンバウアーが1月7日に逝った。78歳だった。喪失感という意味では、ヨハン・クライフやディエゴ・マラドーナ、ペレよりも上か。それほど、60代のオールドファンにとっては大きな存在だった。
その存在を強烈に意識したのは、ちょうど半世紀前。1974年のワールドカップ(W杯)西ドイツ大会だった。東京12チャンネル(現テレビ東京)によって、日本で初めて生中継された決勝戦、それまでサッカー雑誌でしか見たことのない選手たちの中心に背番号5のベッケンバウアーがいた。
応援していたのはオランダだった。背番号14のクライフが率いるオレンジ軍団は、圧倒的な優勝候補だった。しかし、開始直後の失点を挽回し、「爆撃機」ゲルト・ミュラーの決勝点で勝ったのは西ドイツ。下馬評を覆す勝利の後、世界中のファンに向けてベッケンバウアーが発したのが、前述の「勝った者が強い」だった。
サッカーならではの言葉だと思う。一般的にサッカーは番狂わせが多い競技。勝敗を決するための得点が少ないため、内容が結果に結びつかないことが珍しくないからだ。「強い者が勝つ」とは限らない。だからこそ、「勝った者が強い」のだ。
ベッケンバウアーは、選手として3回W杯に出場した。1966年イングランド大会では地元イングランドに決勝で敗れ準優勝、70年メキシコ大会では試合中に脱臼した肩を包帯で固定してイタリアとの死闘を演じて3位、そして74年西ドイツ大会で頂点に立った。
監督しても1986年メキシコ大会は決勝でマラドーナのアルゼンチンに敗れたが、90年イタリア大会ではそのマラドーナを沈黙させて選手、監督として世界一に輝いた。最後に勝つのは、いつもドイツ。「勝った者が強い」の言葉は、ベッケンバウアーとともにあった。
過去には「日本がW杯に出るためには、奥寺が11人必要」と発言
1975年1月、バイエルンを率いて来日した。日本代表と2試合を行い、ともに1-0ながら圧倒的な力の差を見せつけた。残念だったのは、当時専門誌で見たインタビューだ。日本のプロ野球人気に驚いたベッケンバウアーは、「日本にサッカーが根付くのは難しい。攻守が明確に分かれた野球のほうが国民性に合っているのではないか」と話していた。
さらに、80年代には「日本がW杯に出るためには、奥寺が11人必要」とも言った。日本人欧州プロ1号としてドイツで活躍した奥寺康彦を高く評価しての発言だが、同時に「日本が出ることは無理」とも取れた。
その後、日本はJリーグ発足などで急激に力をつけた。W杯の「常連」にもなった。親日家のベッケンバウアーもその成長ぶりを見守り、驚いていたという。一昨年のW杯で日本はドイツを破り、さらに昨年にはアウェーで快勝した。「勝った者が強い」と言い続けてきたドイツ代表が、今度は日本に言われる立場になった。「皇帝」はどんな思いでいたのだろう。
ほとんどスライディングをせず、背筋を伸ばしたままで高い技術と抜群の読みでプレーした背番号5。ボールを奪うと攻め上がり、アウトサイドを巧みに使って前線にパスを供給する姿は今も目に焼き付いている。
今頃、クライフと舌戦を展開しているのか、サッカー伝道師として米国でともにプレーしたペレとボールを蹴っているのか、それとも監督と選手として対峙したマラドーナと雌雄を決しているのか。「皇帝」は逝ったが、その華麗なプレーと「勝った者が強い」の名言は世界中のファンの心に残る。
(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。