JFA関係者も「何も情報がない」と困惑 W杯予選・北朝鮮×日本は平壌でやれるのか【コラム】

前回対戦した2011年の様子【写真:Getty Images】
前回対戦した2011年の様子【写真:Getty Images】

日本は平壌での北朝鮮戦で未勝利

 日本サッカー協会(JFA)の関係者から先日、「何も情報がないんです」と言われたことがある。それは2月、3月に迫った朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のアウェー戦の開催地。果たして平壌で開かれるのか、あるいは第三国での試合になるのか、まだ何も判明していないという。

 過去、北朝鮮とワールドカップ(W杯)予選で戦ったのは10回、そのうち平壌でのアウェー戦は3回でまだ1度も勝っていない。

 最初は1982年のスペインW杯アジア予選で、香港での集中開催された中での対戦だった。1980年12月30日のゲームは延長の末0-1で敗れ、日本の夢が絶たれた。

 1986年メキシコW杯のアジア予選はホーム&アウェーで開催され、1985年3月21日、先にホームゲームを戦った。日本は圧倒的に攻め込まれるものの、大雨でできた水たまりにボールが止まるところを原博実が上手く突っかけ、虎の子の1点を守り切って勝利を収める。

 1985年4月30日、アウェー戦は平壌で開催され、日本は慣れない人工芝に苦しんだのに加えて、ゲームメーカーの木村和司が接触プレーで顔面を骨折。それでも耐えに耐えて0-0の引き分けに持ち込んだ。チームが帰国するなか、木村はそのまま平壌の病院に入院し、別行動となる。木村は後日、「泊まった個室に看護婦たちがテレビを見に来ていた」と苦笑しながら語っていた。

 1990年のイタリアW杯予選は1989年6月4日、国立競技場で先にホーム戦が開催された。後半26分に先制されるものの、直後の同29分に水沼貴史のゴールで同点に。そして後半43分、オウンゴールで勝ち越すとそのまま2-1で勝利を収める。

 1989年6月25日、平壌でアウェー戦が開催され、勝たなければグループリーグ突破できない日本は攻めようとするものの、前半に失点して後半にも加点されてしまう。結局0-2で敗れ、日本はアジア1次予選で姿を消すことになった。

2005年の対戦からファンの人数が逆転

 1994年のアメリカW杯ではアジア最終予選で激突。急きょカタールでの集中開催になり、サウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、イラクとの戦いで2位以内を目指した。北朝鮮とは3戦目で対戦。サウジアラビアに引き分け、イランに負けていた日本はあとのない状態で戦うことになったが、前半28分と後半24分に三浦知良、後半6分に中山雅史が決めて3-0。残り2戦に望みをつなぐ形になった。

 その後、しばらく北朝鮮とW杯予選で戦うことはなかった。次に戦ったのは2006年のドイツW杯アジア最終予選となる。2005年2月9日、埼玉スタジアム2002で対戦した時は、それまでと大きく雰囲気が違っていた。Jリーグがスタートし、サッカー熱が高まったなかで初めて開催されたホームゲームで、両国間の緊張も高く、注目度の高いゲームとなった。

 1980年代まではホームゲームと言っても、日本のサポーターよりも北朝鮮のサポーターが圧倒的に多い状況で、バックスタンド中央に陣取った青いサポーターをぐるりと赤いサポーターが囲むという状況だった。この2005年からやっとファンの人数は逆転している。

 試合は前半4分に小笠原満男が決めて幸先よく先制するものの、後半16分、トリッキーなシュートを決められて同点とされる。だが後半アディショナルタイム、大黒将志がこぼれ球を反応よく蹴り込んで決勝点。日本が先勝することになった。

 北朝鮮にすれば借りを返したいはずの2005年6月8日のアウェーゲームは、タイ・バンコクで開催されることになった。これは先だって平壌で開催された北朝鮮対イランで、試合後のイラン選手の態度に怒った観客がものを投げ入れ、そのペナルティーとして中立地での無観客試合が指定されたからだった。

 試合は後半22分に柳沢敦、同44分に大黒が決めて2-0。これで日本は2006年ドイツW杯への出場を決めた。一方で、この試合が中立地で開催されたのは、北朝鮮が日本代表や報道陣・ファンを国内に入れたくなかったから敢えてイラン戦で仕込んだ、という噂も囁かれた。その話が信憑性を帯びたのは、当時の日朝関係が緊張していたせいでもあった。

来年3月は現状なら平壌開催が濃厚か

 そして、日本と北朝鮮が前回対戦したのは2014年のブラジルW杯アジア2次予選の時。2011年9月2日に埼玉スタジアム2002の試合は緊迫した状況の中でお互いゴールを挙げることができず、時間だけが過ぎていく。0-0の引き分けかと思われた後半アディショナルタイム4分、クロスを吉田麻也がヘディングで叩き込み、劇的な勝利を収めている。

 2011年11月15日のアウェー戦は22年ぶりに平壌での開催となった。この時はファンを受け入れたものの、報道陣は記者6名、カメラマン4名と厳しい人数制限が設けられた。試合は、直前のタジキスタン戦で2次予選突破を決めていた日本がメンバーを変更して臨んだのに対し、すでに敗退が決まっていたにもかかわらず北朝鮮はやる気満々。激しい試合は後半失点を許し、0-1でアルベルト・ザッケローニ監督の初の敗戦となった。

 2024年の北朝鮮戦は、果たしてどこで開催されるのか。

 8月に朝鮮民主主義人民共和国サッカー協会副書記長の李康弘(リ・ガンホン)氏にインタビューした際には、平壌開催に強い意欲を見せていた。また、報道陣の数は規制するにしても、多くのファンを受け入れたいという意向を示していた。

 ところが11月、北朝鮮は「国内の受け入れ態勢が整っていない」という理由で、ホームのシリア戦を急きょ、シリアのホームゲームと入れ替える。ここで平壌では開催できないのではないかという憶測が一気に広がった。

 さらにパリ五輪女子サッカーのアジア最終予選が日本と北朝鮮の間で2月に開催されることが決まり、その時までに平壌の受け入れ体制が改善できないのではないかという推測から、2月、3月は中立地開催になるのではないかという噂も出ている。

 北朝鮮のサッカー関係者としては平壌で開催したいことは間違いないだろう。2014年のブラジルW杯日本に勝利を収めながら予選敗退したことの反省点として、「日本戦で作れた平壌のスタジアムの雰囲気をほかのチーム相手にも作れれば良かった」というものがあるからだ。スタジアムの中で繰り広げられる、一糸乱れぬマスゲームはたしかに大きな圧力を相手チームに与える。

 また、2010年の南アフリカW杯に出場したことで、北朝鮮のサッカー協会は格上げされたという話もある。ほかのスポーツ団体に比べて力を持つサッカー協会がどこまで動かせるかということにもなりそうだ。

 2011年11月15日の試合に対する取材許可が下りたのは10月後半だった。ほぼ準備期間がないなかで飛ばなければ行けなかったのは、もしかすると何か仕込む時間がないようにということだったのかもしれない。今回も直前に開催地が決まる可能性もあるだろう。

 12月25日、北朝鮮の関係者に連絡を取ってみた。そこで伝えられたのは、「8月のインタビュー以降、新たな情報は付け加えられていない」ということ。それならば平壌開催になるだろうが、実際には試合の3週間前程度にならなければ確定しないのではないだろうか。できれば次は平壌の地で日本が勝利に沸き返る姿を見たいと願っている。

(森雅史 / Masafumi Mori)

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森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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