「あんなジーコを見たのは最初で最後」 “鉄人”のブラジル人助っ人が明かす、神様が“勝者のメンタリティー”を注入した瞬間
【あのブラジル人元Jリーガーは今?】サントス(元鹿島、清水、神戸、群馬):後編――尽きることがない日本への熱い思い
ブラジル人MFサントスにとって、日本に行く最大の動機は外国でプレーするという挑戦への意欲だったという。「日本はとても真面目な国であり、サッカーにも真剣に取り組もうとしている」と言う“神様”ジーコの言葉を聞いて、Jリーグの出発地点に参加することを、人生で初めて、妻にも相談せずに即決したと明かす。当時31歳。それから12年間、日本で鹿島アントラーズ(1992~95年)、清水エスパルス(95~2000年)、ヴィッセル神戸(01年)、ザスパ草津(現ザスパクサツ群馬/03年)の一員として戦った。そんな彼の日本への熱い思いは尽きることがない。
■鹿島での貢献
「最初に日本サッカーを見た時に、成功を確信したよ。特に鹿島では選手たちの技術、フィジカルともにポテンシャルが高かった。後は戦術面を学び、経験を積むことだ。そして、ミスを恐れない勇気。それを、ジーコやアルシンド、僕らブラジル人は、ピッチの内外で伝えようとしていた」
ミスを恐れないサントスを物語るエピソードがある。彼が鹿島を去ることが決まった1995年、ホームでのラストゲームとなった7月19日ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)戦のことだ。
「あの試合で鹿島がPKを得て、僕が決めたんだ。今でも語り草だよ。お別れの試合でサポーターに応援してもらっているのに、PKを引き受けて失敗でもしたら、どうするつもりだったって(笑)」
鹿島の飛躍を語るには、Jリーグ開幕前のイタリア遠征も欠かせない。クロアチア代表との親善試合、1-8での敗戦だ。
「相手が代表チームだからと言って、あんな負け方をしていいはずはない。ジーコはみんなを集めて叱り飛ばしたんだ。『君には力がある!』『君はもっとやれるんだ!』と、1人1人を指差してね。あんなジーコを見たのは、僕だって最初で最後だよ(笑)。ジーコは現役時代から今でも、証明し続けているんだ。プロとは、人間とはどうあるべきか。大いなる才能と、それを上回る努力や真剣さによってね。ジーコとの友情は、僕の人生における最大の達成の1つだ。
ともかくそのイタリア戦後から、彼が直接チームの練習を指揮するようになった。みんなの変化は、それはもう凄かった。まずは目が輝き始め、プロ意識が芽生え、プレーが変わっていった。闘志とインテリジェンスの長谷川(祥之)、技術の黒崎(比差支/当時)。僕がボランチとしてコンビを組んだ本田(泰人)やイシ(石井正忠)。ゴールを守るマサ(古川昌明)も、シュンゾウ(大野俊三)も、賀谷(英司)もそうだ。秋田(豊)もいた。秋田はボールを奪うための気迫が凄かった。その彼の空中戦の強さを攻撃でも生かせるように、すごく練習したんだよ。そうやって鹿島は1年目のJリーグサントリーシリーズで、Jリーグ最初のチャンピオンになったんだ。鹿島の幹部だって、3年後の優勝を目指していたんだから、驚きだったよね」
清水のチャントは「今でも覚えている」
■清水での思い出
鹿島を去るサントスの獲得に乗り出したのは、Jリーグ初年度には鹿島の監督を務め、その後もプロ同士、信頼関係の続いていた宮本征勝監督だった。
「清水に行ったら、伝統的にサッカーを呼吸する街にある、素晴らしいクラブだと感じられた。ただ、当時はまだタイトルを獲ったことがなかったんだ。だから、チームに勝者のスピリットを伝えたいと燃えたよ。そして、2年目に夢が実現した。1996年ナビスコカップ、初めて優勝を経験したチームメイトたちの喜びの表情が心に刻まれる。僕の経歴の中でも最高のコンビネーションを築けたノボリ(澤登正朗)やテル(伊東輝悦)、昔からいた(長谷川)健太、堀池(巧)、自分自身に厳しかった真田(雅則)……。そして、サポーターの歓喜。みんなで勝ち獲った初タイトルを誇りに思う」
清水では、1試合限りのセンターフォワードを務めた思い出もある。2000年ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)2回戦のヴィッセル神戸戦。アウェーでの第1戦に0-2で敗れ、準々決勝進出のためには、ホームでの第2戦に勝つ以外なかった。
「ただ僕らは当時、攻撃がしっくりいっていなかったんだ。それで、当時の(スティーブン・)ペリマン監督が考えた作戦は、僕がセンターフォワードに入るということ。空中戦で競り合って、ヘディングでシュートしたり、パスをつなぐために。日頃からそういう練習もやっていたんだ。結果は? 4-0で清水の勝利だった。僕は? 2ゴールを決めた(笑)。市川(大祐)とアレックス(三都主アレサンドロ)が打ち合わせ通りの完璧なボールを出してくれたし、攻撃的MFのノボリとテルは守備もできる。全員の動きがすごく噛み合ったんだ。珍しくて楽しいエピソードだよね」
5年半所属した清水は、彼の経歴の中でも2番目に長くプレーしたクラブとなった。
「今でもチャントを覚えているよ。『♪オーレーオーレー、サントス、サントス、鉄人、鉄人♪』。当時の年齢からして、フィジカルの強さを認めてもらったんだよね。でも、鉄人と呼ばれることで、僕はさらにメンタルも強くなったんだ。このニックネームに応えるため、どんな困難も乗り越えようと頑張れたからね」
清水は「今こそが変わるためのいいチャンス」
■神戸と草津
サントスはその後も現役引退まで日本でプレーし、貢献し続けた。
「ヴィッセル神戸は若い選手たちが多くて、僕にとっては違った環境への挑戦であり、楽しい経験だった。2001年には、一時はクラブ史でも最高のJリーグ4位に達することができたんだよ。そこで引退するつもりだったけど、幸せなことに2003年にザスパ草津に行くことになった。若くてポテンシャルの高い選手たちと一緒に、壮大なプロジェクトを実現できた。1年間で関東リーグ2部、関東リーグ1部、全国地域リーグの3つで優勝して、目標だったJFL昇格を勝ち獲ったんだ」
■日本へのメッセージ
「みんなに話したいことがあるけど…」と考えながら、サントスは「今回は特に、厳しいシーズン終了となった清水に向けてメッセージを伝えてもいいか」と話し始めた。
「清水では子供たちが小学校に通っていたから、街に根ざした暮らしをしたという思いが強い。チームメイトやクラブスタッフ、サポーターやご近所さんなど、人情深くて愛すべき多くの人たちが、僕らの暮らしを支えてくれたんだ。あの街でもう1つ、僕がエネルギーをもらったのが、富士山だ。だからみんなも富士山を見て欲しい。麓からのカーブ、そして頂上。そこが、清水の目指すべき場所だ。
今年、目標を達成することができなかったのなら、今こそが変わるためのいいチャンスだ。1人1人がもう少し成長し、何かもう1つをチームに持ち込む。そして、もっと謙虚になり、もっとみんなで結束すること。あのオレンジ色のユニフォームを身につける者は、みんながそのスピリットを持って欲しい。サポーターのみんなには、これからもチームを信じて支えてほしい。その思いは必ず選手たちに届く。チームヲ、オウエンシテクダサイ。ツヨク、モットツヨク。オネガイシマス!」
[プロフィール]
サントス/1960年12月9日生まれ、ブラジル出身。ゴイアス―ノボリゾンチーノ―ボタフォゴ―カステロ・ブランコ(いずれもブラジル)―鹿島―清水―神戸―草津(群馬)。J1リーグ通算265試合33得点。日本では4クラブを渡り歩き、2002年にJリーグ功労選手賞も受賞した中盤のスペシャリスト。誠実な人柄から多くの人に慕われた。
(藤原清美 / Kiyomi Fujiwara)
藤原清美
ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。