柏木陽介はなぜ輝いた? 興梠慎三も「あいつじゃなきゃ」と称賛…並のアスリート能力でもあっと言わせた天性の能力【コラム】

現役引退会見に臨んだ柏木陽介【写真:Getty Images】
現役引退会見に臨んだ柏木陽介【写真:Getty Images】

2006年にプロデビュー後、18シーズンを戦った柏木のサッカー人生

 FC岐阜の元日本代表MF柏木陽介が、12月5日に引退の記者会見を開いた。サンフレッチェ広島で2006年にプロデビューしてから18シーズンを戦ったが、「輝かせてもらって、輝かせることもできた」という自身の言葉がぴったりだった。

 広島ユースから昇格した当時は、この会見での花束贈呈に訪れた高萩洋次郎(現栃木SC)に対する言葉で「正直、広島では楽しみ過ぎていたかなと。負けても、あのプレー良かったねとか言いながら食事して」と笑ったように、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の攻撃的なサッカーの下で、まさに楽しくサッカーをする選手の印象だった。

 ただ、10年に浦和レッズへ移籍するとそればかりではなくなった。11年にはゼリコ・ペトロヴィッチ監督のチームで残留争いに巻き込まれて「サッカーの内容も伴わないし、自分自身もうまくいかない。チームも、何をやっても勝てる気がしない。何が悪いのかなとやっている本人たちも分からない」ような時間を過ごした。

それでも、柏木がそこで大事にしたのが「つなぐ」こと。「このチームは仲が良くないなと思って、決起集会を1か月に1回くらい、若手とベテランがはっきり分かれていてそこをつなげようとしていて、終盤戦にようやく1つになってきた」と話し、それを移籍当時の柏木に厳しい言葉をかけたこともあるという浦和時代の先輩、平川忠亮氏も会見のビデオメッセージで感謝していた。柏木も平川氏には感謝の思いがあることを常に話していて、現役ラストゲームでの交代で入ってくる平川にキャプテンマークを渡す時は涙が抑えられない姿があった。

 このようなところは、彼のずっと変わらないところでもあって、若手を食事に連れて行った回数は彼がトップだろうと多くの選手が話すし、浦和レッズレディースの選手たちをまとめて食事会を開いたこともあった。試合翌日のリカバリーを終え、レディースの試合観戦に訪れる姿を見た回数もかなりのものだった。

 柏木は会見で「小学校もスポーツ少年団で、中学校も9人しかいないサッカー部。そこからここまでなれると。そこからどれだけ頑張ったかなと今になったら分かる。どうやったら上手くなれるか、みんなと上手くやれるかと考えてきた」と振り返っていたが、アスリート的な能力で言うとJリーガーの中でもそれほど高いほうではなかっただろう。

 会見のメッセージでMF遠藤航(リバプール)が「もう少し足が速かったら良かったと思いますけど」と笑っていたが、それこそ浦和のトレーニングでもそんな光景は多々あった。プレシーズンのキャンプの時なんかも本当にしんどそうで「メディアの皆さんもやってみたら良いんですよ」なんて声を掛けられたのも覚えている。

 だからこそ、1人で何かをすべてやるのではなくて、周りが必要だった。同じく今季限りで引退したDF太田宏介(FC町田ゼルビア)と話したという「身体能力が高いわけじゃなくて、みんなに助けられてきたと。周りが上手くて、輝かせてもらって、輝かせることもできた」という言葉は彼をよく表しているのではないか。

低調なパフォーマンスに奮起した浦和時代の圧巻な45分間

 今でも印象に強く残っているのが、2020年に浦和と横浜FCが埼玉スタジアムで戦った試合だ。この年の浦和はクラブが3年計画を打ち出し、自身2年目の指揮だった大槻毅監督の下で多くのことが変化していった。

 新型コロナウイルスの影響で変則的なシーズンになるなかで、サッカーの現代化というべきか、プレスの整理とポジショナルプレーの要素をチームに与えようとした面はあったが、必ずしもうまくいっている部分ばかりではなかった。

 柏木はプレシーズンのキャンプではボランチに入っていたが、その変則的な流れのなかでコンディションが上がらずに出場機会が限られた。サイドハーフでスタートしたその試合、前半のチームは酷い状態でボールを前に進められず、後半から久々に柏木がボランチに入った。

 その後の45分間は圧巻だった。0-2で負けている状況に彼も何か吹っ切れたものがあったのかもしれないが、とにかく動いてボールを受け取って、渡して、次に受けられるところに動いてと走り回った。

 司令塔という言葉そのものにすべてのボールが柏木を経由するような攻撃に変わって、自然と周囲が柏木を見て、柏木が中心のチームになって見違えた。少し変な言い方をすると、それまでにチームが何か月もかけて積み上げようとしてきたものが柏木1人に敵わなかったとすら言えた。

 周りが彼を見てボールを集めることによって「輝かせてもらい」、彼は良いパスを供給していくことで「輝かせる」。その日ダブルボランチを組んだMF柴戸海も「覚えてますよ。あれはすごく残ってますね」と話し、「中心でやったほうがうまく回る人だと思う。本来持っている良さとか、迫力が勝手に出てくる。それは見ていても明らかで、楽しさも身近で感じましたね」と振り返った。

「走るファンタジスタ」とも呼ばれた柏木も、現代サッカーに壁

 正直なところ、ペトロヴィッチ監督が浦和の指揮を執って楽しそうに活躍した時期、タイトルを獲ったシーズンや決勝戦はあれど、あれ以上に柏木1人での影響力を感じさせられた試合は記憶にないかもしれない。

 浦和時代の柏木からアシストを受けて多くのゴールを挙げたFW興梠慎三は「今、ああいう選手はなかなか見当たらない。スピードを落とさずにもらえる、そういうボールの強弱を、受け手を見ながらできる。パサーっていうのはあいつのことを言うのかな。ほとんど(のアシストが)陽介だったから。お互いに、陽介も僕じゃなきゃ出せない、僕もあいつじゃなきゃ出てこない。良いところが噛み合った。レッズではあいつの存在が大きかった」と話した。

 ただ、現代サッカーの中でこのような選手が生き残るのがさらに難しくなっているのも事実だろう。理由は残念だったにしても柏木は翌シーズンの開幕前に浦和を離れることになるが、当時のリカルド・ロドリゲス監督の指揮下で柏木がどんな形で組み込まれるのか見てみたかった思いは消えない。

 その後の浦和が歩んだ路線を見れば、2つの道がうまい具合に重なったかは分からない。その会見中の彼自身の言葉、太田との会話の中にあったという「現代サッカーのフィジカル、強度、テンポと、自分たちはもうちょっと違うねと。それを認識して辞められる」というのも恐らく正しい。その寂しさを感じるのは間違いないけれども、それもこれもタイミングということなのかもしれない。

「本当にこのサッカー人生、幸せだったと思っている。サッカーが本当に好きで、楽しくて、もちろん苦しいこともあったけど幸せだった」

 きっと周りも同じくらい、彼とサッカーをするのが楽しかったのではないかと思う。「走るファンタジスタ」とも呼ばれたレフティーは多くの人とボールをつなぐサッカー人生を選手としては終え、スパイクを脱いだ。

(轡田哲朗 / Tetsuro Kutsuwada)

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