不思議な感覚を覚えたボールタッチの“瞬間” 小野伸二、ファインダー越しに感じた天才たる所以【コラム】
【カメラマンの目】ワレモノに触れるかのような繊細なタッチとコントロールは“神業”
11月12日、久しぶりにオランダ1部フェイエノールトの本拠地であるデ・カイプを取材のために訪れた。思い返してみると、前回に足を運んでからかなりの時間が経っていたので取材ノートを調べてみた。デ・カイプでの撮影は、2002年9月18日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ(CL)のフェイエノールト対ユベントス戦以来のことだった。
そのピッチでは、キラ星のごとく輝くスター選手たちの競演が見られた。しかし、日本からロッテルダムへと向かい、デ・カイプで最もカメラのファインダーに捉えたかったのは、アレッサンドロ・デル・ピエロやパベル・ネドベド、エドガー・ダービッツにリリアン・テュラムといったユベントス所属のスター選手ではなかった。フェイエノールトのストライカーであるピエール・ファン・ホーイドンクでもない。彼らを撮影意識の脇役へと追いやった選手の名前はシンジ・オノだ。
小野伸二というサッカー選手は、多くの言葉で語る必要がないほど人々は彼のプレーを知っている。「天才」という二文字だけで表現できる。その日本が生んだ稀代のファンタジスタもついにスパイクを脱ぐ時がきた。
小野は近代の日本サッカー史を語るうえで欠かせない選手なのだから当然、彼に向けてカメラのシャッターを切った回数も多い。
小野のプレーの特徴はなんと言っても繊細なボールタッチだ。頭から足のつま先まで全身にボールタッチへの繊細な神経が行き渡り、動きがしなやかで、あらゆる箇所を使ってワレモノにでも触れるようにボールをコントロールし、その衝撃を吸収してピタリと足元に止める。
硬いボールが小野のタッチによって、勢いを失う“絵”は不思議な感覚さえ覚えた。このボールへの精妙なアプローチは、“黄金世代”と称された稲本潤一や高原直泰、遠藤保仁、小笠原満男ら才能のある選手が揃った1979年組の中でも群を抜いていたと思う。
そして、そこから繰り出されるパスもボール自らが意思を持ったように、味方へと正確につながれた。小野が生み出す至高のプレーはボールを止める、蹴るのサッカーにおける基本技術が抜群に優れていたことが根幹となっている。
サッカーの枠を越えて愛された天才・小野
そうしたハイレベルな小野のプレーはヨーロッパの舞台でも十分に発揮された。小野は当時UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)に優勝するほどの強豪フェイエノールトで、ピッチに立つ11人のうちの1人にとどまることなく、セットプレーのキッカーも務め、仲間に堂々と指示を出す、チームのオーガナイザーとしての地位を確立していた。練習場で写真に切り取った1枚には指揮官ベルト・ファン・マルバイクが小野を呼び止めて話し合うひとコマがあり、その場面からも彼がいかにチーム内において重要な選手であったかが伺えた。
小野のような才能のある選手の出現は、日本代表のレベルアップにも波及する。2002年の日韓ワールドカップ(W杯)ベスト16の成績を経て、06年ドイツW杯を目指す指揮官ジーコは小野、中田英寿、中村俊輔、稲本といった才能にあふれた中盤4選手を核としたチームで世界との勝負に出る。その試みに、サポーターは強豪国にも臆することなく戦えるレベルへと飛翔するのでは、と期待を高めた。
その期待が最も高まったのが02年10月16日、国立競技場で行われたジーコジャパン初戦となったジャマイカ戦だ。この試合で小野は新生・日本代表の初ゴールをマークする。結果的にジーコの挑戦は成功したとは言い難いが、選手の個人能力を最大の武器として戦う発想は、小野に代表されるような高い才能を持った選手の存在なくして考えられなかったことだろう。
こうして小野はクラブと代表の2つの舞台で、華麗なボールテクニックを駆使して観る者を魅了した。現実離れしたプレーはアニメーションの主人公を想像させ、年齢を重ねても、永遠のサッカー少年というイメージが強い。そして、紡がれたさまざまな経験の中には栄光だけでなく怪我という不運もあったが、小野の印象は彼をカメラのファインダーで捉えた多くの時に見た笑顔だ。
小野を取材してきて印象に残る笑顔は、何もピッチ上だけにとどまっていない。オランダ時代、練習が終わると観戦していた子供と気軽にボール遊びに興じ、サポーターが求めるサインにペンを走らせていた。そこに笑顔の小野がいた。当時のフェイエノールトの日常に、小野は欠かすことのできない存在であり、人々から愛さていたのだった。
国家という理念の下でチームに声援を送る代表という集合体よりも、地域が限定されそこに住む人々の象徴的な存在となるクラブはチームとサポーターの関係はより親密となる。しかし、チームは多国籍で形成され、近代サッカーではもはやサッカー選手に境界線はない。小野は日本にとどまらず世界で、そしてサッカーというスポーツの枠を超え、そこで生活を送る人々に愛された選手だった。
徳原隆元
とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。