2次予選の改革は必要か アジア強化を鑑みたベストな方法が理想も…日本が背負う“恩返し”の責務【コラム】
遠藤が2次予選の在り方に疑問、今後の改革の必要性を問う
日本代表が26年北中米共催ワールドカップ(W杯)へ向けて好スタートを切った。11月16日に始まったアジア2次予選、初戦ホームでミャンマーに5-0と完勝すると、21日にはアウェーでシリアに再び5-0と大勝した。怪我人を抱えながらも選手を入れ替え、2試合で被シュート1というスコア以上の内容。あまりの力の差に「2次予選は意味がない」という声もあがる。
もともと、広大なアジアの予選は難しい。移動に時間がかかるし、時差もある。オーストラリアを考えれば、季節まで変わる。ハードな日程をこなす欧州組に、さらに大きな負荷が加わる。欧州トップレベルの試合を経験している選手たちにとって実力差のある試合でモチベーションを保つのも大変で、怪我のリスクもある。
シリア戦後、主将のMF遠藤航は「2次予選の形がどうなんだというのもある。ファンの人に楽しんでもらえるのか疑問」と問題提起した。「引いた相手を崩す」ことはできたかもしれないが、それがどれだけ強化につながるのか。国際マッチデーが予選で使われ、2年近く強化のための親善試合ができないことも問題になる。
出場チームが「48」に増える26年大会は、アジア枠も「4.5」から「8.5」へ倍増する。それでも、予選のフォーマットは06年大会以降続く現行方式がほとんど変わらなかった。W杯出場が夢から現実の目標に変わるチームもあるが、日本や韓国など常連国にとっては「水増し感」はぬぐえない。
シリア戦後、主将のMF遠藤航が言った発言「そもそも2次予選の形がどうなんだというのはある」。すでに予選はスタートしているが、次の30年大会のために選手として問題を提起した。選手も今の状況をいいとは思っていない。これまでの方式を見直す時期がきている。
アジア予選の在り方を考えるタイミングではあるが…
FIFAランキング上位チームの2次予選を免除して、3次予選(今予選は18チーム)から参加させる方法はある。日程の問題や移動の負荷を考えれば、かつて行われたセントラル方式や東西に分けての予選実施なども考えられる。
思い切って予選免除はどうか。ラグビーは怪我のリスクが大きい実力差のある試合を避ける狙いもあって、W杯上位12チームに次大会の出場権を与えている。サッカーも決勝トーナメント進出チームの予選を免除すればいい。昨年の大会なら16強の日本と韓国、オーストラリアは予選免除。それでも、アジア枠は「5.5」残る。
いずれにしてもアジア予選の在り方を考えるタイミングだと思う。ただ、強豪チームの都合だけで改革はできない。予選は、アジア全体のレベルアップのためのもの。AFC(アジアサッカー連盟)が06年大会から予選全試合をホーム&アウェー方式にしたのも、アジア全体の普及と強化を目的としたものだ。
日本のように欧州で活躍する選手がいて、W杯でも上位を狙うようなチームとの対戦は、多くのチームにとって貴重な経験になる。ホームで試合は普及にもつながるし、放送権料など収益にもなる。FIFAランクでもアジア最上位にある日本は、アジアを牽引する立場。常に全体のレベルアップを考えなければならない責任がある。
かつて日本も、アジアや世界の力に助けられた過去がある
かつては日本も弱かった。アジアや世界の力に助けられた。半世紀以上前、マレーシアが毎年招待してくれたムルデカ大会は、貴重な実戦の場となった。欧州や南米の強豪クラブは「弱小」の日本のために、はるばる来日してくれた。90年代にはアルゼンチンやフランスなど強豪国がW杯出場経験もない日本に胸を貸してくれた。
彼らの助けがあって日本代表は力をつけ、普及にもつながった。古い話をすれば、ちょうど100年前、日本人に基本的な技術を教え、今にもつながるショートパス戦法を授けた「日本サッカーの恩人」チョウ・ディン氏もビルマ(現ミャンマー)からの留学生だった。日本サッカーが成長した今だからこそ、アジアへの恩返しが大切になる。
日本代表の強化につながりにくいアジア予選だが、アジアのレベルアップなくして代表の強化もない。06年大会から続く現行の予選方式がベストだとは思えない。では、どう改革するのか。日本など強豪国だけでなく、すべてのアジアの国から声を聞かなければならない。政情的にも不安定なアジアだからこそ、サッカーは1つでありたい。今こそ、本格的な議論を。26年のW杯が終われば、翌27年には次の予選がスタートする。
(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。