セレソンの“芸術性”復活を目指したマリオ・ザガロ 信念を貫いた老練な指揮官が見せた選手との絆【コラム】
【カメラマンの目】フランスW杯に臨む代表チームを率いたマリオ・ザガロ
世界のサッカーシーンをリードし続けるセレソン(ブラジル代表の愛称)の監督はどんな男たちに託されているのか。ワールドカップ(W杯)をはじめ参加するあらゆる大会で優勝が宿命づけられ、国民からのプレッシャーを強烈に受ける困難な仕事を引き受けた人物を紹介するシリーズの第2回目はマリオ・ザガロの人物像に迫る。
それは自らの体験から辿り着いた、老練な男の信念だった。
「ブラジルがもっとも美しく輝いていた時代(1950年後半から70年代)のサッカーを現代(当時90年代後半)に復活させる」
これは選手、監督としてセレソンの舞台で数々の栄光を手にしてきたマリオ・ザガロが、再び98年フランスW杯へと臨む代表チームの指揮官を務めていた時の言葉である。
知り合いの方がマリオ・ザガロと懇意だったため、フランスW杯を前にして97年と98年の2度インタビューをする機会があった。リオ・デ・ジャネイロの自宅マンションで話を聞いたなかで、マリオ・ザガロがセレソンの監督として目指し主題としていたのは、人々の感性を刺激する芸術性に富んだサッカーの復活だった。
31年生まれのマリオ・ザガロは、インタビューに応じた当時の年齢が65歳を超えていた。しかし、自らのサッカー観について情熱的に語る瞳の奥に宿る鋭さは、高齢を感じさせないある種の豪胆さを感じたのを今でも覚えている。
マリオ・ザガロのセレソンでの経歴は、これ以上ないほど栄光に包まれている。選手として58年スウェーデン大会、62年チリ大会で優勝を経験し、70年メキシコ大会では監督で、さらに94年にも監督を補佐する立場のテクニカル・コーディネーターとして世界制覇を経験している。
スポーツであるサッカーを芸術へと昇華させた、ブラジルが最も輝いていた時を体験しているマリオ・ザガロにしてみれば、その時代のサッカーは至上の価値観として心の中にあって当然だった。
同じく国民たちも、かつての華麗なサッカーの再現を渇望していた。だが、90年代ともなると、世界の実力差はかつてと比べると縮まり、たとえ大国ブラジルといえども圧倒的なサッカーをピッチで見せることは容易なことではなくなりつつあった。思いが遂げられない現実に直面した国民は、このころからセレソンの戦いぶりを守備的だと批判するようになる。
しかし、その批判は必ずしも正しくはない。確かに90年イタリア大会、94年アメリカ大会のブラジルは“超”攻撃的ではなかった。
それでも他国からすれば十分に攻撃的なチームであった。だが、マリオ・ザガロがそうであるように、このサッカー大国が最も輝いていた時代をライブで経験、あるいは映像を通して知ったブラジル人にしてみれば、90年代以降のセレソンに物足りなさを感じてしまうのも仕方のないことだったのかもしれない。
そうしたもどかしさは選手、監督として輝かしい時代のサッカーを知っているマリオ・ザガロが最も感じていたことだったのではないだろうか。それゆえにマリオ・ザガロは隆盛を極めた時代のサッカーの復活に強いこだわりを見せた。
攻撃への追及がもたらした“ギャンブル的要素” 連覇ならず指揮官からの勇退
しかし、攻撃的なスタイルは、チームとして見ると安定感を失いがちになる。個人能力を武器とした魅せるスタイルは、攻守のバランスを欠くことになり、相手がブラジルの長所を消してくるようなスタイルで向かってくると、力を発揮できずに呆気なく敗れることもあった。
だがその反面、攻撃への追求によって得た勝利はダイナミックな内容となった。勝つか負けるか。真っ向勝負の結果、チームとして機能すれば素晴らしいサッカーを見せるが、波に乗れなければ完敗する。それが良くも悪くもマリオ・ザガロが率いた98年W杯に向けて作られたセレソンの特徴だった。国民から言われていた守備的というイメージより、ギャンブル的要素が強いチームだったと思う。
結局、フランス大会では準優勝に終わり、ブラジルは94年アメリカ大会に続く連覇はならなかった。マリオ・ザガロはこれでセレソンの指揮官から勇退する。
そして、2002年日韓大会決勝での勝利から約5か月後の11月20日、ブラジルはソウルの地で韓国と親善試合を行う。ブラジルにとっては再始動に向けて体制が整っていない時の試合で、正式な監督就任までの繋ぎとして指揮を執ったのがマリオ・ザガロだった。
極東のソウルワールドカップスタジアムで行われた親善試合に、ブラジルはロナウド、ロナウジーニョ、ロベルト・カルロス、カフー、ゼ・ロベルト、エジミウソン、ルシオ、アモローゾと錚々たるメンバーを揃えて臨んだ。
試合は前半7分に先制を許したブラジルがその9分後にロナウドがゴールを決めて同点とする。しかし、ブラジルは後半13分に再び失点。それでも後半22分にロナウドが韓国ゴールのネットを揺らし追いつく。
そして、ブラジルは引き分けに終わるかと思われた90分+3分のアディショナルタイムに得たPKのチャンスを、ロナウジーニョが確実に決めて韓国を振り切ったのだった。
選手の個人能力を存分に発揮させ、失点を恐れない攻撃的な姿勢で戦う。懸念される失点へのリスクは現実となるが、そんなことはゴールで返せば問題はないと言わんばかりに大胆に勝負し続け、最後は勝利する。まさにマリオ・ザガロのチームらしいエンターテイメントに富んだ90分となった。
シャッターを切る中で一番印象に残った1枚は―華麗なプレーではなく…
この試合をゴール裏から写真に収めていたなかで、最も印象に残った1枚は何だったのか。それはブラジルのスター選手たちの華麗なプレーの一瞬を切り取った場面などではなかった。
親善試合だったこともあり、ゲーム開始前の集合でマリオ・ザガロは選手たちに促されて一緒に写真に収まっている。この1枚はブラジル代表監督という難しい仕事をこなすにあたって、マリオ・ザガロが必要な能力を持ち合わせていたことを表している。
自らの才能に絶対の自信を持っているブラジルの選手は個性派が多い。そうした選手たちを纏めることは簡単な作業ではない。
言うまでもなく監督は選手たちから信頼される存在でなくてはならない。一般論としても人の上に立ち、組織を先導する人物には人望が必要だ。サッカー界でも例外ではなく、選手たちが個性派揃いのブラジルとなると、指揮官には他の同じ立場の人物と比較して、より強いカリスマ性を備えている必要がある。
選手たちを纏め上げるのに必要な人格的影響力の観点からすれば、マリオ・ザガロの実績は抜群だった。98年フランス大会では世界制覇を成し遂げられなかったが、指揮官が選手たちと一緒に笑顔で集合写真に収まる珍しい場面は、ブラジル代表監督として備えていなければならないカリスマ性を、マリオ・ザガロが持っていたことを示していた。
(徳原隆元 / Takamoto Tokuhara)
徳原隆元
とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。