歴代外国籍選手の52%占有でJリーグ発展に貢献 “楽しませてくれた”歴代ブラジル人選手ランキング【コラム】

ジーコとアルシンド【写真:Getty Images】
ジーコとアルシンド【写真:Getty Images】

【前編】1705人の外国籍選手のうち、888人がブラジル人選手

 これまで多くの外国籍選手が来日してJリーグを盛り上げてくれた。特に多いのはブラジル人選手。これまでに888人が各カテゴリーで観客を唸らせてくれた。

 外国籍選手としてJリーグにデータが残っている選手はこれまでに1705人いる。そのうち52%がブラジル人で、いかに日本サッカーに大きな影響を与えてきたかが分かる(日本に帰化した選手は外国籍選手のデータに残っていない)。

 そんな大量移住(?)してくれたブラジル人選手に敬意を表して、日本サッカー界への「インパクトが大きかった」選手たちをピックアップしておきたい。なぜ選手の実績だけで選ばないのか。それはタイトルを残したブラジル人選手だけでも数が多いのだ。

 Jリーグ得点王に輝いたことがある選手だけでも、ウィル(2001年/札幌)、ウェズレイ(2003年/名古屋)、エメルソン(2004年/浦和)、アラウージョ(2005年/G大阪)、ワシントン(2006年/浦和)、マグノ・アウベス(2006年/G大阪)、ジュニーニョ(2007年/川崎F)、マルキーニョス(2008年/鹿島)、レアンドロ(2016年/神戸)、ジョー(2018年/名古屋)、マルコス・ジュニオール(2019年/横浜FM)、レアンドロ・ダミアン(2021年/川崎F)、チアゴ・サンタナ(2022年/清水)と、過去35人(2人受賞が4回あるため)のうち13人だ。

 年間最優秀選手(MVP)に輝いたことがある選手は、ペレイラ(1994年/V川崎)、ジョルジーニョ(1996年/鹿島)、ドゥンガ(1997年/磐田)、[アレックス(1999年/清水:帰化前)]、エメルソン(2003年/浦和)、アラウージョ(2005年/G大阪)、マルキーニョス(2008年/鹿島)、レアンドロ・ドミンゲス(2011年/柏)、レアンドロ・ダミアン(2021年/川崎)と、これまた名選手ばかりだ。

 これにどう順位を付けるのか。もう私見しかない。どうせなら、ということで「楽しませてくれた」順位をカウントアップしていく。今回は1位〜5位まで。1位はカシマスタジアムのトイレで今もよくお会いするあの方です。

貢献度はジーコが不動のNo.1

鹿島時代のジーコ【写真:Getty Images】
鹿島時代のジーコ【写真:Getty Images】

■1位:ジーコ(鹿島:1992~94年)

 Jリーグが始まる前から日本に来て、今でも練習場にまで現れる。30年以上日本サッカーに関わり続けてくれているこの人以外に、貢献度1位は考えられない。

 一度引退してスポーツ担当大臣まで務めた人物がプロリーグでプレーできるのか。38歳になったジーコの現役復帰を疑問に思った人は多かったに違いない。だが、来日すると誰にも真似のできないプレーでチームを引っ張るだけでなく、加入当初は日本サッカーリーグ2部に所属していた住友金属工業を鹿島アントラーズとして生まれ変わらせ、Jリーグ屈指の強豪となるベースを作り上げた。

 決して派手なプレーを見せるわけではないが、すべてが正確。無駄をとことん排除した選択を常にするため、ゴール集ではワンタッチのあと正確に蹴り込むというシンプルな場面が続く。その1つのプレーだけ見れば凄さが分からなくても、続けて見ていけばゾッとするくらい冷徹なキックなのが明らかになる。だが、今でも知り合いの記者を見かけると自分から手を振って話しかけてくれるほど温かい人物だ。

■2位:アルシンド(鹿島:93~94年/V川崎:95、97年)

 得点王でもなければMVPにも選ばれなかった。チームリーダーかというと、その役はジーコのもの。だが、長髪ながらも頭頂部分の髪がないという独特のヘアスタイルと、ジーコと上手く絡みながら力強くゴールを奪うプレーぶりで一躍有名人に。特に1993年の最初のステージで鹿島が優勝を果たしたことで人気も爆発、CMにも登場した。

 Jリーグバブルの象徴のような選手だが、実力も十分。1993年5月16日のJリーグ開幕戦、鹿島アントラーズ対名古屋グランパスエイトでは、ハットトリックのジーコが話題をさらったもののアルシンドも2得点。しかもリーグ戦28試合出場で22得点というハイペースだったが、32試合出場28得点という横浜マリノスのラモン・ディアスに栄冠を持っていかれた。

 翌1994年はリーグ戦43試合に出場し28得点と前年度以上のペースで得点を生んだが、ジェフユナイテッド市原のオッツェことフランク・オルデネビッツが40試合出場30得点と上回り、残念ながら記録に名を刻むことはできなかった。それでも、Jリーグ創世記を語るとき、外せない1人と言えるだろう。

■3位:ジュニーニョ(川崎:2003~11年/鹿島:12~13年)

 ブラジル人選手はカテゴリーを問わず来日して活躍しているが、最初にJ2でプレーしながらも強烈なインパクトを残したのが、ジュニーニョだった。2003年、J2に所属していた川崎フロンターレにやって来ると、2年目となった2004年、39試合に出場すると37ゴールをマークする。スピードが桁違いだが動きがスムーズなせいで、高級車が静かに加速している様を思わせた。

 2004年の夏の試合中、タッチライン沿いにやって来たジュニーニョは通訳にドリンクボトルを持ってこいと合図した。通訳がボトルを渡すと飲むふりをして通訳に水を掛けて笑う。これを見ていた関塚隆監督はベンチを飛び出すと相手ゴール前を指さしながらジュニーニョに大声で叫んだ。

 すると、ジュニーニョは「分かったよ」という仕草をしてゲームに戻り、すぐにゴールを奪ってしまった。そして再度ベンチ前までやって来て、通訳にボトルを持ってくるよう手招きしたのだ。こんなことをした選手をジュニーニョ以外でこれまでJリーグで見たことはない。

フッキはJリーグを離れて完全開花

フッキは東京V、川崎、札幌でプレー【写真:Getty Images】
フッキは東京V、川崎、札幌でプレー【写真:Getty Images】

■4位:フッキ(川崎:05、08年/札幌:06年/東京V:08年)

 2005年、18歳で川崎フロンターレにやって来た「超人ハルク」のポルトガル語読み、フッキは当時から筋肉隆々。しかし、ジュニーニョ、我那覇和樹の壁が高く、2006年はJ2のコンサドーレ札幌へ。2007年は同じくJ2の東京ヴェルディに期限付き移籍して実力を示した。

 2007年は42試合出場で37ゴールを挙げて東京VのJ1昇格の原動力となったが、プライドの高さも一流で、さんざんラモス瑠偉監督を困らせていた。活躍が認められて2008年は川崎フロンターレに戻ったものの、ここでも自尊心の高さを見せつけ、第2節で途中交代させられると、あっさりと東京Vに舞い戻る。

 しかし、東京Vでも7月までしか我慢できず、シーズン途中で退団してヨーロッパへ。その後はFCポルト(ポルトガル)、FCゼニト(ロシア)、上海上港(中国)とヨーロッパ5大リーグでプレーすることはなかったが、それでもブラジル代表には呼ばれ続ける。その姿をやるせない気持ちで見ていた日本サッカー関係者がいたに違いない。

■5位:ウィル(大分:1999~2000年/札幌:01年、03年/横浜FM:02年)

 類い希な得点感覚を持ち、2001年にはJ1に昇格したコンサドーレ札幌で26試合に出場し24ゴールを挙げてブラジル人選手として初めて得点王に輝いた。だがウィルが日本人の記憶に残ったのは、その素晴らしい活躍ぶりだけではない。

 2002年、横浜F・マリノスに移籍して9番を与えられるほど期待されたが、大分トリニータ、札幌と続けていた「俺様」の態度を改めることはなかった。10月26日のジュビロ磐田戦では、退場になるとピッチを去り際にパスを出さなかった奥大介(故人)にローキックを見舞った。

 これが大きな問題となり6試合の出場停止処分が下ると、チームからは契約解除されてしまう。その後、札幌、大分と古巣に戻ってプレーしたが調子は戻らず2003年限りで日本を離れることに。能力が高くてもビッグクラブに入るとやっていけないという独特な選手だった。

(後編に続く)

(森雅史 / Masafumi Mori)

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森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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