柳沢、完全燃焼で選手人生を終える 「やり残したとは思わない」

柳沢敦の引き際の美学

 幼少期にそのような指導を受けながら育った柳沢は技術と動きの質が磨かれ、中学3年生のときには早くも鹿島のスカウトの目に留まるようになった。富山第一を経て入団した1年目には、当時所属したブラジル代表のレオナルドにも「本当に面白い子だな」と驚かれている。
 1998年シーズンにはブラジル人FWマジーニョと組み、自己最高の22ゴールをマーク。その後、ゴール数こそ減少したが、鹿島の黄金期を支え、日本代表にも名を連ねるようになっていった。
 鹿島の鈴木満・常務取締役強化部長は当時、「柳沢は他のFWより一歩でも二歩でも先に動いてくれる。その動きにDFが引き付けられるから、もう1人のFWが生きる。柳沢と組むFWは、彼の動きでより多くのチャンスが巡ってくる」とその特長を語っていた。
 決して典型的なストライカータイプではない。2006年のドイツワールドカップの1次リーグ第2戦、クロアチア戦では右サイドからの決定的なグラウンダーのクロスに合わせたものの、ネットを揺らせず、そのプレーをきっかけに批判を浴びたこともあった。
 だが、柳沢とともにプレーしてきた選手の多くがそのプレースタイルを高く評価し、その存在を頼もしく感じていたのは事実だ。特に広い視野を持つパスの出し手にとっては顔を上げれば、常に最高のタイミングで動き出しているFWの存在は貴重だった。
 ただ、そんな柳沢も実は肉体的な衰えを感じていた部分もあったようだ。
「一歩どころか、二歩三歩くらいの遅さは自分の中では感じてます。昔のイメージを描けなくなってきてるっていうのはありますね」
 そう語る柳沢に、それはいつ頃からだったのかと問うとこんな答えが返ってきた。
「一番最初に感じたのは『あれ?』でしたね。自分が体が重いとかそういうことじゃなくて、普通に走ってるのに、後ろから……。代表戦だったんですけど、だからけっこう前。それが『あれ?』っていうだけで、そこから始まったってわけじゃないんですけど、それが最初だったかなと。けっこう早めに動き出したのに、後ろから追い抜かれて、ボールを取られて」
 柳沢の最後の代表は2006年のドイツワールドカップ。つまり、8年も前に体の異変を感じ取っていたことになる。それでも、柳沢はピッチに立ち続けた。30歳を過ぎて全盛期のようなスピードが出せなくなってきても、京都や仙台でチームに貢献した。最終的にプロの世界で19年もの間プレーし続けることができたのは、幼少期からコツコツと積み上げてきた技術の賜物だろう。
 昨年末の時点で、柳沢はすでにこう言い切っていた。
「やり残したとは思わない。悔しいことはいっぱいあるけど、やり残したとは思わないですね。やっぱりそのときに全力でやってきたから。サッカーに対してだけは自分は誠実にやってきたと思ってるから。サッカーにだけは。だから、やり残したっていう気持ちはないですね」
 引退を決断した柳沢は、その選手人生において完全に燃え尽きることができたのだろう。Jリーグが発足して以降、多くのファンを魅了してきた選手がまた一人ピッチを去る。
【了】
サッカーマガジンゾーンウェブ編集部●文 text by Soccer Magazine ZONE web
ゲッティイメージズ●写真 photo by Getty Images

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