柳沢、完全燃焼で選手人生を終える 「やり残したとは思わない」

哲学を形作った幼少期の原体験

 ちょうど1年前に柳沢敦と引き際について話したことがある。
 当時36歳だった男は「プロに入ったときは30までできればいいなって漠然とした目標はあったんですけど、30っていうラインってあっという間だったし、超えてみると、時間の流れがすごく速く感じますね」としみじみと振り返りながらも、「いくつまで現役を続けたい?」と問いかけると、「やれるまで」と力を込めた。
「気持ちと、動く体があれば、年齢は関係ないかなって思いますけどね」
 そう話していた柳沢は、しかし、今季限りでユニフォームを脱ぐことを決めた。
 1996年に鹿島でプロとしてのキャリアをスタートさせて以降、J1通算370試合108得点。日本代表では58試合17得点で、2002年と2006年のワールドカップを主力として戦った。セリエAでのプレーも経験。日本サッカーの歴史の扉を開いてきた選手の一人だった。
 守備陣を置き去りにする素早い動き出しや絶妙なポストプレー。高い戦術眼を持ち、その場面で最も効率のいいプレーをいとも簡単に実現させる。周囲を生かしながらゴールをこじ開けていく柳沢のプレーはピッチ上で際立ち、鹿島や代表などにおいて攻撃面の機能性を高める重要な役割を担った。
 そんなFWの原点は、小学6年生から所属した地元・富山のクラブチーム「FCひがし」にある。
 まだ部活動が主流だった時代に発足した「FCひがし」はジュニアとジュニアユースの部門を備えるクラブチームで、そこの2期生として入団した柳沢は1人の指導者と出会った。成瀬昌朗氏だ。
 同氏は子どもたちにその年代で勝つためでなく、将来を見据えた指導を徹底した。柳沢もその教えを受け、多くの技術を吸収することになった。
 重要なポイントとなったのは動き方とタイミングだ。「FCひがし」では、FWはまず縦パスを受けることが基本だった。前線でボールを受ければ、アメフトのように陣地をゲインできる。ボールが縦に動くことで、チーム全体も前に行く。そして相手守備ラインの裏の取り方も徹底的に教え込まれた。ドリブルで交わすのか、ワンツーで抜くのか、オフ・ザ・ボールの3人目の動きでスペースを突くのか。

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