トルシエの監督論「もし今、日本代表監督でも…」 ジーコ、アンチェロッティとの違い 「レアルの監督にはなれない」【コラム】
トルシエ監督が日本で成功できた理由「これが私のやり方だ」
かつて日本代表を率いたフィリップ・トルシエ氏が2023年2月からベトナム代表監督に就任した。日本サッカー界に多大な功績を残した指揮官は、24年1月のアジアカップで対戦する日本代表との一戦を前にして何を思うのか。旧知の英国人ジャーナリストが、トルシエ氏が日本代表にかけた魔法、日本代表監督時代に得た教訓、監督論について掘り下げる。(文=マイケル・チャーチ/全3回の3回目)
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フィルップ・トルシエは、カタール代表の監督時代に親善試合でU-23日本代表と対戦したことがある。お互いになんの利害関係もなく、彼が日本を相手にしたのはこの試合が最初で最後だ。その後、彼はマルセイユ、モロッコ代表、中国のクラブなどで働いたあと、今年2月にベトナム代表の監督に就任した。
日本サッカーの進化を間近で見てきた彼は、日本サッカーの進歩に果たした自分の役割に誇りと喜びを感じている。しかし、彼は自分自身の能力について十分に自覚し、自分が適切な時期に、適切な人物として日本代表を率いていたことを理解している。
「もし今、私が日本代表の監督でも、同じ成功を収められるかどうか分からない。なぜなら選手たちは試合の2日前にしか来ないからだ。私が日本代表監督だった時、23歳以下の選手たちの面倒を見て、多くの合宿を行った。このような体制が整っていたからこそ、私たちは成功できた」
「選手たちは日本の中だけで仕事をしていて、海外からの情報は入ってこなかった。私の仕事はそんな彼らの教育をすることだった。ベトナムでも同じことを感じている。選手全員がベトナムでプレーしていることは、私の哲学を浸透させるうえでは大きなアドバンテージになっている」
「これが私のやり方だ。多くの情熱と決意がある。ほかのことを考える余地はない。もし私がもっと柔軟な人間だったとしたら、成功はなかったかもしれない。この情熱、この炎がなんなのかは分からない。でも、だからこそ私はバイエルン・ミュンヘンやレアル・マドリードの監督にはなれないだろう。自分の限界は分かっている。効率良くやるには、レベルの高い選手がいないグループが必要だ。私は選手たちに厳しい規律を課す。そうすることで、いい仕事ができるんだ」
ジーコやアンチェロッティとは異なるスターへの対応「自分の限界は分かっている」
トルシエは監督論について続ける。
「パリ・サンジェルマン、バイエルン・ミュンヘン、レアル・マドリードでレベルの高い選手たちと仕事をする場合、集団ではなく、個々の選手の面倒を見なければならない。だから私に日本代表の監督はできても、フランス代表の監督をするのは難しい。自分の限界は分かっている。ビッグスターに対して、このような態度は取れない。マルセイユに行って、そのことに気づいた。日本人選手やアフリカ人選手、ベトナム人選手のマネジメントをするのとは異なる」
「個々に対応できるようにすること、状況が適切でない時に目をつぶらないようにすることは全く別の仕事だ。ハイレベルの場所で、それはとても複雑な仕事だ。私のレベルはスターのいないチームまでだ」
「私が日本にいた時に、中田(英寿)が20人いたとしたらどうだろう。きっとジーコなら対応できる。彼ならレアル・マドリードの監督にもなれる。私ならどうか。無理だろう。もしかすると、ジーコはベトナムの監督にはなれないかもしれない。だが、私ならできる。彼を批判しているわけではない。カルロ・アンチェロッティもまた、ベトナムの監督にはなれないが、ブラジルやレアル・マドリードの監督にはなれるだろう」
トルシエは、ほかの監督とは一線を画す存在だった。日本サッカーのさまざまな要素をまとめあげ、特別な時期に特別なチームへと昇華させた。
今、彼はベトナムで日本の再現を成し遂げようとしている。24年1月のアジアカップで、日本サッカー界は再びこの有名なフランス人監督がピッチサイドに立つ姿を見ることになる。
[プロフィール]
フィルップ・トルシエ/1955年3月21日生まれ、フランス出身。28歳で指導者に転身後、複数のクラブで指揮を執り、98年フランスW杯で南アフリカ代表を率いた。同年9月、日本代表の監督に就任。A代表とU-21日本代表の監督を兼務し、99年ワールドユース(現U-20W杯)で準優勝し、2000年シドニー五輪でベスト8。02年日韓W杯で日本初のW杯勝利、初の決勝トーナメント進出を果たした。その後、カタール代表、マルセイユ、モロッコ代表監督などを歴任し、23年2月からベトナム代表監督に就任し、U-23ベトナム代表監督も兼任している。
(マイケル・チャーチ/Michael Church)
マイケル・チャーチ
アジアサッカーを幅広くカバーし、25年以上ジャーナリストとして活動する英国人ジャーナリスト。アジアサッカー連盟の機関紙「フットボール・アジア」の編集長やPAスポーツ通信のアジア支局長を務め、ワールドカップ6大会連続で取材。日本代表や日本サッカー界の動向も長年追っている。現在はコラムニストとしても執筆。