ファインダー越しに見た名古屋時代の闘莉王氏 強烈な個性を持ちながらストイコビッチと信頼関係を築き上げた訳は?
【カメラマンの目】J30ベストアウォーズでベストイレブンに選出された闘莉王氏を回顧
5月15日Jリーグの30周年を記念して行われたイベントJ30ベストアウォーズでベストイレブンが発表された。DFでは5人が選出されたが、そのなかに田中マルクス闘莉王氏の名前があった。
闘莉王氏はモニターで紹介された受賞コメントで「ベストイレブンに選ばれて、まあ当たり前なのかな」と陽気なブラジル人気質そのままに冗談半分に切り出した。そして「あれだけの得点を取ったら、やっぱり印象的でしょうね」そう言葉を続けた。
闘莉王氏のポジションはゴールの中央を死守するセンターバック。守備の要だ。強い勝利への思いを持って相手の攻撃陣と激しく渡り合い、ボールを奪えば前線へのフィードも正確。そしてセットプレーなどでチャンスと見れば、果敢にゴール前へと攻め上がり貴重なゴールをゲットした。というDFの常識的なプレーの評価だけで収まらなかったのが、この男だ。経験を積んだ現役後半の名古屋グランパスと京都サンガ時代では、DF登録ながら敵陣深くで戦うFWとしてもプレーしている。それも試合途中からポジションを変えるというのではなく、キックオフから最前線に立ってプレーしている。結果、リーグとカップ戦で合計117得点を記録しているのだから、受賞コメントでその得点力を誇るのも頷ける。
Jリーグの舞台だけでなく日本代表としてもプレーした闘莉王氏。ピッチで奮闘する姿は当然、何度も撮影した。そのなかで印象に残っているのが、名古屋に所属していた2010年8月8日J1リーグ第17節FC東京戦での試合後の1枚である。この試合、名古屋は劣勢の展開を強いられながらもなんとか凌ぎ、90+4分のアディショナルタイムに闘莉王氏がヘッドで劇的な決勝点を挙げ、勝ち点3を奪取したのだった。
勝利の立役者を監督が笑顔で労う場面を広角レンズ装着のカメラで捉えた。当時、チームを指揮していたのは名古屋で選手としても活躍したドラガン・ストイコビッチ氏だ。選手時代のストイコビッチがJリーグの舞台で見せたファンタステックなプレーは、名古屋サポーターだけでなく見る者のすべてを魅了した。J30ベトスアウォーズでもベストシーンとして、雨中戦で濡れたピッチを巧みにリフティングしながら相手陣内へと攻め込むプレーが受賞している。
ストイコビッチはその類まれなテクニックを駆使したプレーが高く評価された反面、天才肌の人物にありがちな感情の起伏が激しい、怒れる芸術家でもあった。そんなストイコビッチが監督として名古屋に戻ってきたのが08年。10年シーズンはストイコビッチ体制も3年目を迎えリーグタイトル獲得の機運が高まっていた。そのための重要なピースとして闘莉王氏はチームに加わったのだった。
しかし、実力のある選手はストイコビッチがそうであったように、自身のプレーに絶対の自信を持ちプライドも高い。そうした強い個性を持った選手は、チーム内に衝突を起こす火種を内包していることもある。闘莉王氏もその典型で、監督によっては実に扱いづらい選手となる。
そうした個性が強い選手に、それと同等の、いやそれ以上の個性派の指揮官がひとつの成功を目指した場合、待ち受けている状況はお互いを理解し、とことん一緒にやるか、それとも喧嘩別れするかの二極化することが多い。そして、闘莉王とストイコビッチは写真からも分かるように信頼の関係を築き、名古屋を初優勝へと導いた。
もしかすると闘莉王氏は自分のなかに、強烈な個性を持って自在に振る舞いながらも、試合では何より勝利を目指してプレーした現役時代のストイコビッチを見ていたのかもしれない。
(徳原隆元 / Takamoto Tokuhara)
徳原隆元
とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。