「文化的には育っている」 野々村チェアマン、Jリーグ30周年の歴史を受けて目指す理想像
【特別インタビュー】1993年のJリーグ開幕がプロを目指す転機
1993年に開幕したJリーグは今年5月15日に30周年を迎える。「FOOTBALL ZONE」では、選手や解説者、クラブの代表などさまざまな立場からJリーグのことを見てきた第6代Jリーグチェアマンの野々村芳和氏にこの30年間を振り返ってもらい、今後のJリーグが目指すべき方向を語ってもらった。チェアマンはさまざまな変化の中で、「Jリーグの文化は絶対的に育っている」と力強く語った。(取材・文=石川 遼/全2回の1回目)
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――野々村チェアマンは1993年のJリーグ開幕当時、20歳で慶應義塾大学ソッカー部でプレーされていました。Jリーグ開幕当時の心境をどのようなものでしたか?
「高校を卒業して大学に入る時は、将来サッカーで飯を食べていくなんて考えていませんでした。でも、Jリーグ開幕の前年(1992年)にヤマザキナビスコカップが始まって、世の中の雰囲気がガラッと変わったのを感じました。それで、まだ20歳だった野々村少年は『やってやろう』という気持ちになったんでしょうね。周りが就職活動をするなかで僕は一般企業への就職を全く考えていなかったし、実際に就活もしなかった。あの年代に生まれた僕みたいな人間は幸運だったし、同じような環境でやれていた者であればみんな同じ気持ちになったと思います。それまでは(プロになる)選択肢がなかったところへ大きな変化が訪れたわけですからね」
――大学卒業後の1995年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に加入されました。その頃のJリーグと言えば、元ブラジル代表のMFジョルジーニョやMFレオナルド、“ピクシー”の愛称で知られる元ユーゴスラビア代表MFドラガン・ストイコビッチなど多くのスター選手が多くプレーする華々しい舞台でした。
「当時の僕はあまり世界のサッカーの事情のことはよく分かっていなくて、プロならこれが当たり前だと思っていました。自分のことに必死で、相手がブラジル代表でもピクシーでも臆することなくプレーするだけでした」
Jリーグの勢力図は「10年単位で変わっている」
――ここ数年の間にも元スペイン代表MFアンドレス・イニエスタ(ヴィッセル神戸)のようなトップ選手が来日する流れは生まれています。今のJリーグに当時と重なる部分はありますか?
「当時と今のJリーグの姿が重なるわけではありません。30年前にあったような盛り上がりがもう一度起こればそれは素晴らしいことですが、今は一部のヨーロッパも日本もアメリカもどんぐりの背比べ状態になっています。将来的にはかつてのようにメジャーな選手が集まるリーグというのが理想の姿なのかもしれませんが、今すぐにそれを目指す必要はないのかなと思っています。
もちろん経験のある選手がたくさん来れば、Jリーグにとってプラスな面もあるでしょうけど、そうならないといけないとは思いません。それよりも『JリーグがJリーグらしく成長する』ことの方が重要だとすれば、チャナティップ選手(タイ代表/川崎フロンターレ)のように東南アジアからの選手が増えたり、南米やヨーロッパから才能を持った若い選手たちがやってくるような流れが次のステップなのかなと感じています」
――この30年間でJリーグ内の勢力図は常に変化を続けています。最初の10年で言えば、初代王者のヴェルディ川崎(当時)に始まり、横浜マリノス(当時)、鹿島アントラーズ、ジュビロ磐田といったクラブがチャンピオンになりました。
「クラブのサイズ=競争力というのは紛れもない事実です。でも、できたばかりのJリーグではバジェット(予算)面に大きな差はなかった。そのなかで勝ち続けられたのはサッカーを上手く作ることができたチーム。それによって勝者のメンタリティーというものが醸成され、上手く継続することができたんだと思う。でも、なかなか継続することはできなかった。10年単位で変わっていってしまっている印象はありますよね」
――2000年代に入るとガンバ大阪と浦和レッズが新たにリーグ王者の称号を手にし、さらに2010年代にも名古屋グランパス、柏レイソル、サンフレッチェ広島が優勝するなどより群雄割拠の時代となりました。
「リーグを引っ張っていってくれるようなクラブができにくいような背景はありました。やっぱりJリーグは始まったばかりで、どこのクラブにとってもまずは安定させるための30年だったというのが大きな理由だと思います」
Jリーグは「選手がプロとして成長するための環境を整えてあげることが重要」
――開幕直後はサッカーバブルとも呼ばれるほどの一大ブームが起きましたが、一方で近年はエンタメの多様化もあってサッカー界全体として熱が冷めてしまっているのではという懸念もあります。スポーツチャンネル「DAZN」の参入もあり、地上波放送で試合が中継される機会もほとんどなくなってしまいました。
「もちろん、瞬間的な温度で言えば当然30年前のほうがありました。Jクラブも自分たちが伝えたいことをどれだけ用意できるか、そしてそれをどのように発信していくのかを考えていかなければいけないと思います。でも、この30年でサポーターやファンは確実に“本物”になり、60クラブそれぞれにしっかりと人が付いている」
――Jリーグは文化として確実に根付いている、と。
「僕がチェアマンになって掲げた成長戦略の中でもクラブが地域で輝くことと、トップ層がナショナルコンテンツとして輝くことを2つのテーマとして挙げています。しかし、現時点ではメディアに大々的に取り上げたいと感じさせるようなトップクラブがなく、サッカーに興味のない人たちに届けるにはいろいろなことを考えなければいけないのが現実です。ですが、Jリーグは文化的には絶対的に育っているし、あらゆる地域に根付いています。このまま着実に成長していけば、いつか日本地図を1枚ペラってめくった時に残るのが圧倒的にサッカーだったということが起こるはず」
――30周年を迎えたJリーグのこれからの展望について聞かせてください。
「まずはやはりピッチ上の競争力とかクオリティーをどうすれば高められるかを考えなければいけないと思っています。どのようなサッカーを目指すのか、そのために必要な選手を連れてくるにはクラブとしてどれだけの売上が必要なのかといったことはそれぞれのクラブに考えてもらうとして、Jリーグとしては選手がプロとして成長するための環境を整えてあげることが重要だと思います。
僕は常々サッカーは『作品』だと言っていますが、例えば3万人収容のスタジアムに5000人しかいないのと、5000人のスタジアムでも満員の中でやるのだったら後者のほうが選手にとってもいいし、絶対にいい作品になる。そういった熱量がある中でプレーすることで選手は自分のリミットを超えたプレーができるようになる。
そして、日本中でサッカーの熱を高めていくためにはそれぞれの地域での露出を徹底的に増やしていくこと。それも結果的には作品の魅力向上、そこでプレーする選手たちの能力向上に絶対につながると信じています」
[プロフィール]
野々村芳和(ののむら・よしかづ)/1972年5月8日生まれ、静岡県出身。清水東高―慶應義塾大―ジェフユナイテッド市原―コンサドーレ札幌。現役時代は攻撃的MFとしてプレーし、札幌時代には副キャプテンとしてJ1昇格に貢献し、その後はキャプテンも務めた。現役引退後はサッカー解説者や札幌のチームアドバイザー、代表取締役社長、日本プロサッカーリーグ理事などを経て、2022年3月からは史上初のJリーグ出身チェアマンとしてJリーグの発展・価値向上に尽力する。
(石川 遼 / Ryo Ishikawa)