武藤嘉紀はなぜ日本代表へと辿り着けたのか 「2.95メートルを越えた先で」

筋金入りの泥くささ

 日の丸を着た背番号「14」は、9月9日、横浜国際のピッチでカクテルライトに照らされ、両手を広げたその体一杯に歓声を浴びた。プロ入りからわずか8カ月後、彼は日本代表に初選出されていた。さらに、その代表2戦目で初ゴールを記録する。
 武藤は後半6分、中盤で背後から迫り来る相手MFを振り切り、グッと力強くピッチを踏み締めて加速した。そして、右から持ち替えて左足をふり抜く。ネットが揺れて沸き返るスタジアムで一人、静けさの中にいたという。
「ドリブルしてるときも夢中で覚えていない。そんなことは初めて。ただ、後でテレビで見直すと、いつもどおりの自分のプレーができていた」
 しかし、スタンドで見守っていた、ある人は、まったく別のシーンでほほを緩ませていた。武藤が前線から自陣深くまで戻り、ボールを奪い返した場面だ。それを見て、「いいぞ」と思わず声が漏れた。その話を振ると、武藤は少し間を置き、「それってクラさんですか」とその人物を言い当てた。
 武藤を高校3年間指導した、倉又寿雄監督(現・日体大監督)は、その日、本人には内緒で観客席にいた。教え子の活躍に「本当にうれしいよ」と何度も繰り返し、「何よりも献身的に戻ってボールを奪い返した場面はグッときたね」と目を細めた。武藤も、それを伝え聞くと笑顔になった。
「守備ができたから良いプレーだとは思わない。なぜなら僕自身にとっては当たり前のプレー。倉又監督には、その基礎をつくっていただいた」
 倉又監督は、かつてFC東京U-18に昇格したばかりの武藤を右サイドバックへとコンバートした。最終学年に武藤自らが直訴して前線へとポジションを戻したが、泥くさい現在のプレースタイルはこのとき培われたものだった。
「正直、サイドバックはやりたくなかった。それでも、成長していく過程でこの経験は必ず生きると言ってくれた。だからこそ、信じて取り組めた。いまになってどれだけプラスになっているのかを考えると、感謝の言葉しかない」
 倉又監督は、その教え子の変わらぬ姿を何よりも喜んでいた。「オレが言ってきたことが、いつか届いてくれればいい」。その思いは武藤に確かに伝わっていた。
「前線の選手でもハードワークできることは必ずプラスになるとずっと言われてきた。だからこそ、大学以降も前に残ってゴールだけ奪えば良いという選手にはならなかった」
 その姿はプロ入り後も、たとえステージが日本代表に変わっても、少しもブレることはなかった。「関わったすべての指導者がいまの礎となった。そうした出会いがなければ、いまの自分はない」。
 彼のロードマップには、遠い未来の目標は存在しない。「代表定着、そしてレギュラーと一歩ずつクリアした先に、いずれ代表のエースという目標を持てる日がくるかもしれない。けれど、いまは定着するところから。それよりも所属するFC東京で勝利に貢献できなければ、まったく意味がない」。幼いころから両親に言われ続けたからこそ、どんなに世間から注目を集めても自らを戒め、「謙虚でいたい」と言い続ける。
 さらに、その後にいつも続く言葉がある。どこまでも実直な姿勢は、筋金入りでそうは曲がりそうにはないのだ。「いまそうなったわけではないし、小学生から築き上げたものだからこそ、体に染み付いている」。だから言うのだ、「泥くさく、ひたむきに戦いたい」と。
■プロフィール
武藤嘉紀(むとう・よしのり)
1992年7月15日、東京都生まれ。4歳のときにバディSCでサッカーを始め、小学4年でFC東京サッカースクールに通い始める。以来U-15、U-18と順調にステップアップ。2011年から慶応大に進み、12年から2年連続でJFA・Jリーグ特別指定選手としてFC東京に帯同。今季から正式加入し、9月に日本代表に初招集された。座右の銘は囲碁棋士・藤沢秀行の言葉である「強烈な努力」。
【了】
馬場康平●文 text by Kohei Baba
ゲッティイメージズ●写真 photo by Getty Images

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