香川真司が直面したマンUという名の赤い壁

順調なキャリアを阻んだ壁

 幼稚園からサッカーを始め、中学生でFCみやぎバルセロナに越境すると、U-15日本代表に選ばれた。プロになってからも順風満帆で、セレッソ大阪からドルトムントに移籍し、わずか2シーズンで世界のトップレベルで通用するクオリティーを見せた。弱冠23歳で不世出の大監督に見初められ、欧州サッカー界で頂点と言える名門マンU加入を果たした。そんなさんぜんと輝く履歴書に、今回の“出戻り移籍”は影を落とす形になった。

 当然、香川は日本人記者団の前に姿を現すことはなく、無言のままドイツへ飛び立った。ビッグクラブ中のビッグクラブであるマンUでのし上がるには、実力は無論のこと運も不可欠だった。しかし、その運に見放されていた。

 その不運を時系列を追ってざっと書き連ねてみると、①ロビン・ファン・ペルシー加入で、ウェイン・ルーニーがトップ下にコンバート、②左膝負傷で約2カ月の欠場、③ファーガソン監督の勇退、④モイーズによる守りの負担が大きい中盤左サイドでの起用、⑤マタの加入と続き、マンUでの日々が逆境続きだったことが分かる。

 中でも、12年5月のドイツ杯決勝に自ら視察に赴き、直々に香川を口説いて獲得したファーガソン監督の退任は大きかった。前述した吉田氏の言葉を借りれば、サー・アレックスは、するする・ふわふわっとした動きをチームに組み込もうとした。そして、ドルトムントの得点源だった香川とロベルト・レバンドフスキのコンビネーションを、ルーニーとの新コンビで復元しようと考えていたはずだ。

 香川の獲得は、マンUの強さと速さに柔らかさと正確さを添加させる、まさに剛に柔を混合する試みだった。その背景には、マンUが国内制覇よりCLで当時全盛だったバルセロナ打倒を悲願としていたこともあった。指揮官は常々、自身の栄光の歴史に欧州制覇が足りないことを不満としていたからだ。つまり香川は、CLでパワープレー以外の確実な決定機をつくろうと考えたサーの新たな切り札だったのである。

 しかし不世出の大監督は、香川とたった1シーズンを共有しただけでクラブを去った。サー・アレックスは香川がドルトムントに再加入した後、スイスのニヨンで開かれたUEFAのコーチ会議で会ったユルゲン・クロップに話し掛けた。

「真司のベストを引き出せず残念だ。われわれは彼の1年目に満足していたんだ。通常2年目は次のステップを踏んで行くが、彼にはそれができなかった。けれども、彼が2年目に成長できなかったことには、われわれにも責任がある」

 この言葉には、自分の構想通りにマンUに組み込めなかったことを嘆く響きもある。

 ファーガソン監督勇退をはじめ、さまざまな不運が積み重なったところにワールドカップでの不振が追い打ちをかけた。そして、ファン・ハール新監督の前でプレシーズン中に決定的な見せ場を作れないまま新シーズンに突入した。

 さらに期待の新監督の下で開幕戦に敗れ、第2節も引き分け。2試合勝ち星なしという事態に陥ると、ビッグクラブのマンUに焦りとパニックが入り交じった不穏な空気が充満していった。それは、今年4月22日にモイーズを解任に追い込んだ雰囲気と似ていた。

 これも、絶対的な求心力を発揮していたファーガソン監督を失った後遺症である。年にほんの数回しか負けなかったチームがポロポロと星を落とすと、ファンもクラブもメディアも血眼になっていけにえを求めるようになった。誰が悪い、誰がいらない、もしくは何が足りないと、言い始めるのだ。

 こうしてクラブ内に抜き差しならぬ重圧がかかると、MKドンズ戦の大敗が引き金となり、香川に放出の最後通告が下った。

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