欧州を認めさせたJリーグ“急変貌”の30年間 三笘らが啓示する日本サッカーレベルアップの遍歴

30周年を迎えたJリーグ【写真:徳原隆元】
30周年を迎えたJリーグ【写真:徳原隆元】

【識者コラム】Jリーグを盛り上げてきた選手をなぞりつつ30年の歴史を回顧

「FOOTBALL ZONE」では1993年5月15日に開幕したJリーグの特集を組み、“産声”以降で日本のサッカー界がどう変貌してきたのかを考察。Jリーグが歩んだ30年の歴史を、名声を博した助っ人外国人や日本人選手を基に識者に振り返ってもらった。(文=加部 究)

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 振り返れば、Jリーグは格好のタイミングで開幕した。幸か不幸か、アマチュアの低迷期が長引き、タレントは全員国内にいた。さらに日本代表監督にはハンス・オフトが就任し、いきなりアジアのタイトルを獲得して代表選手たちを、リーグを彩るスターへと押し上げた。一方で欧州へ目を向ければ、EU内の移籍の自由を保証するボスマン判決が下る前で、まだJクラブでも海外からスター選手たちを招聘することが出来た。

 もともと日本でも潜在的なファンは少なくなかった。国内のリーグ戦や日本代表戦では閑古鳥が鳴いても、欧州や南米から人気クラブが来日すればスタジアムは埋まった。それだけにJリーグが開幕し、ジーコ、ピエール・リトバルスキー、ギャリー・リネカー、ラモン・ディアスらが参入すると、非日常だった夢の舞台が演出され空前のブームが到来した。

 産声をあげたばかりのプロリーグを牽引し軌道に乗せた最大の功労者は、日本代表としてW杯に出場する大望を描いて帰国した“カズ”こと三浦知良だった。とりわけラモス瑠偉とのホットラインは、代表でも初代王者のヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)でも最も必要な時にゴールという歓喜爆発の瞬間を創出し続けた。

 Jリーグはアマチュア末期の読売クラブ(現・東京ヴェルティ)と日産自動車(現・横浜F・マリノス)のライバル関係を引き継ぎ、華々しく幕を開けた。しかし一方で奇跡の成功を紡ぎ出したのが、ジーコの招聘でプロクラブとして堅固な基盤を築いた鹿島アントラーズだった。

 ジーコは率先してプロとは何かを示し、今度はレオナルド、ジョルジーニョ、ビスマルク、マジーニョらブラジル代表の豪華助っ人勢が来日して常勝を後押ししていく。川淵三郎初代チェアマンから「オリジナルメンバー入りは99%無理」との烙印を押された小さな街のクラブは、結局30年間で最も数多くのタイトルを積み上げることになった。

 また1990年代後半に入ると、鹿島のライバルとしてジュビロ磐田が名乗りを挙げ一時代を共有していく。名波浩、中山雅史、藤田俊哉、福西崇史、服部年宏、田中誠など日本代表の錚々たるタレントを並べ、中央ではドゥンガ氏が睨みを効かせて牽引。黄金期後半には、ほぼ国産で技術、運動量ともに突出したチームを完成させていく。

 手のつけられない強さを誇った1998年には、中山が4試合連続ハットトリックを記録し歴代最多の36ゴールを積み上げ、2002年には高原直泰がMVPと得点王を手にした。Jリーグは1996年に初の1シーズン制が導入され鹿島が制したが、以後は2002年まで磐田との両雄がリーグタイトルを独占することになった。

かつて千葉の指揮を執ったイビチャ・オシム氏【写真:Getty Images】
かつて千葉の指揮を執ったイビチャ・オシム氏【写真:Getty Images】

ベンゲル氏、オシム氏ら国際水準の名将たちがもたらした改革

 ピッチ上の助っ人以上に、日本サッカーの進化を促したのが国際水準の名将たちだった。オリジナル10では明らかに出遅れていた名古屋グランパスは、後にアーセナルで黄金時代を築くアーセン・ベンゲルを招聘。それまで腐りかかっていたドラガン・ストイコビッチの復活に成功する。ピクシーの異名を取る天才は、Jリーガーとしてワールドカップ(W杯)を戦い、自身も監督に転身すると名古屋に初タイトルをもたらした。

 同様にリーグ随一の人気を誇る浦和レッズも、守備の要として君臨したギド・ブッフバルトが、後に監督としてリーグ制覇を成し遂げている。そして指揮官として最大のインパクトを残したのが、イヴィチャ・オシムだった。残留争いの常連だったジェフユナイテッド千葉が、瞬く間にリスクを賭けて勝利を奪いに出る活気に満ちたチームに変貌。オシムはカップタイトル(Jリーグヤマザキナビスコカップ/現・ルヴァンカップ)を置き土産に、日本代表監督に転身することになった。

 またJリーグの記念すべき日本人選手初ゴールを決めた風間八宏は、のちに川崎フロンターレの監督に就くと、記録に足跡を残すことは叶わなかったが、偉大な改革を実践した。「止める、蹴る」の概念を書き換え、圧倒的なポゼッションでゲームを支配する土台を築くと、リーグ王座の入り口までチームを引き上げ鬼木達監督に手渡した。この間にクラブのバンディエラ中村憲剛は伝説となり、大久保嘉人は鮮やかな復活を遂げ、いずれも引退間際まで輝かしい選手生活を全うした。

欧州で活躍する守田英正と三笘薫【写真:Getty Images】
欧州で活躍する守田英正と三笘薫【写真:Getty Images】

日本サッカーが見せた急成長を、欧州移籍の選手たちが示している

 伝統国からすれば一瞬にも相当する30年という短期間で、日本サッカーは世界でも稀な急変貌を遂げた。例えば大卒でルーキーシーズンから苦もなくペナルティエリアを切り裂いた三笘薫は、プレミアリーグに舞台を移してもまるで変わらずに輝いている。同じく大卒でプロ入りした守田英正は、ポルトガルでステップアップし同国3強のスポルティングで不可欠の存在となった。彼らの欧州での短期間での順応は、そのままJリーグのレベルアップを証明している。

 さらに先のカタールW杯では、欧州からJへ復帰した長友佑都と酒井宏樹がプレーしたが、その先鞭をつけたのは中村俊輔だった。

 2000年に22歳でJリーグのMVPに選出された随一のファンタジスタは、帰国後の2013年にも35歳で同賞を手にした。

 優良輸出国として注目を集めるようになった日本のリーグには、草創期に欧州や南米などからやって来たスターたちに近い経歴を築きあげた日本人選手が、復帰してくる道筋が確立されつつある。この健康なサイクルが継続される限り、Jリーグ、さらには日本サッカー界が一層元気になる未来が約束されるはずである。

(加部 究 / Kiwamu Kabe)

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加部 究

かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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