なぜ岡山学芸館は選手権初優勝できたのか 高原監督が挙げた県全体の底上げの理由

岡山学芸館が選手権初優勝できた理由とは?【写真:徳原隆元】
岡山学芸館が選手権初優勝できた理由とは?【写真:徳原隆元】

決勝戦で東山を破り、全国3883校の頂点へ

 第101回全国高校サッカー選手権大会は、決勝戦で岡山学芸館が東山(京都)を3-1で破り、岡山県勢として悲願の初優勝を飾った。岡山のチームが決勝に進出したのはこれで2度目。第85回大会で初めてファイナルに駆け上がった作陽は、盛岡商(岩手)に1-2で逆転負けしていた。岡山学芸館が全国3883校の頂点に立ったことで、初優勝校がまた1つ加わった。

 少なくとも30年以上前だったら、「今度の対戦相手は〇〇県のチームだからそう怖くはない、よほどのアクシデントがない限り大丈夫」と言われていた歴史があり、ほとんど警戒されることのない“サッカー後進地区”というのが存在した。

 しかし、南宇和(愛媛)が武南(埼玉)に2-1で逆転勝ちし、優勝旗が初めて四国に渡った1989年度の第68回大会が1つの区切りとなり、それ以降は地域による実力差が徐々に解消されていった。日本サッカー協会(JFA)が全国9地域に設置していたトレーニングセンター(トレセン)制度をさらに充実させ、その成果が結実したのが1つの要因だろう。

 1996年にナショナルトレーニングセンター制度を整備し、大会形式から研修会形式に変更。指導者の養成にも一層の力を入れた。例えば関東在住であっても、腕利きのJFAナショナルトレセンコーチは北海道や九州に派遣されて選手を鍛え、並行して指導者養成も行った。これによって各都道府県には次から次へと才能豊かな選手が育ち、同時に優秀な指導者も大勢誕生していった背景がある。

 岡山も例外ではないはずだ。武南が初優勝し、史上最多の48校が参加した第60回大会に作陽が岡山代表として初出場すると、長らく玉野光南とともに県内の高校サッカーをリードしてきた。

 しかし、歴史を振り返ると、岡山勢の4強進出は06年度の第85回大会で準優勝した作陽が初めてで、それ以降は今回の岡山学芸館まで1校もなかった。ベスト8にしても作陽のほかは、50年代に関西、70年代に勝山と水島工が1度ずつ名を連ねただけで、全国の高い壁に跳ね返されて消沈する戦いの連続だった。そういう過去に限定すれば、岡山県も“サッカー後進地区”だった。

 中国地方5県を見ても、かつて埼玉、静岡とともに高校サッカー御三家と呼ばれ、9度の制覇を誇る広島を除く4県は優勝旗を手にしていなかった。

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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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