森保監督の濃密な4年半 何を成し遂げ、何ができなかったのか…一番の問題点だったのは?

勝てばなんでもいいという訳ではなかった?

 五輪代表監督を兼任する森保監督は2018年AFC U-23選手権で3バックを採用し、その後五輪世代は3バックでプレーさせた。本格的な4バックと3バックの併用は2020年の東京五輪後にすべての世代を融合させて行うというのが自明だった。

 そして、その切り替えを選手がピッチの中で判断できるようするというのが、森保監督が最初に掲げたチームの理想像だったはずである。「ピッチの中の選手が自分たちで判断できなければ、外から指示していては状況の変化に対応できない」ということを森保監督は報道陣に対しても何度も説明していた。

 しかし、新型コロナウイルス禍ですべての構想は狂った。東京五輪は1年間延期され、チームを熟成するための練習試合は組むことができなかった。集めることができた選手のコンディションを見極め、勝ち点を得るための試合をし、内容はあと回しだったと言わざるを得ない。

 そのため森保監督がW杯で見せることができた姿は、非常に中途半端な形だったのではないだろうか。達成できた点もある。4バックと3バックを併用しても選手が混乱することはなかった。ドイツ代表戦の先制点やスペイン代表戦の同点、逆転劇に見るように、チャンスと見るや多くの選手が反応するような「機を見るに敏」という部分は表現できた。

 だが、サイドで優位に立つためだったはずの3バックはサイドのスペースを消すための5バックになり、「できる限り握りたい」と言っていた主導権は相手に渡したままだった。

 そんな戦いでも勝利を収めるというのは現実主義的な森保監督らしかったが、本当はもっと別の戦い方で勝ちたかったのではないかと想像できる。育成やレベルアップも視野に入っている森保監督だから、「勝てばなんでもいい」という訳ではなかったと思うのだ。

 最初の練習で示した理想型とW杯での戦いぶりの違いに「やり残しはないのか」と森保監督に質問したところ、「ありません。今できることはすべてやれた」と回答があった。また、新型コロナウイルスの影響がなかったとして、理想の形に持って行けたかどうかも分からない。

森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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