中田英寿は「ピッチ外では優しかった」 “職人”明神智和が明かす日韓W杯の舞台裏

忘れられないトルコ戦の苦い思い出

 グループリーグ2勝1分で決勝トーナメント進出を果たした日本は、ベスト16でトルコと対戦。前半12分にミスから与えたコーナーキック(CK)で失点し、鈴木隆行と市川大祐を投入した後半開始から明神は右ウイングバックからボランチへとポジションを移したが、1点が遠く、0-1で敗れた。「トルコ戦のことはあまり覚えていない」という明神の中で、後半18分に鈴木隆行からパスを受け、ペナルティーエリア外の左45度付近から右足でミドルシュートを放つも、しっかりミートできずに枠を捉えることができなかったシーンは、苦い記憶として頭に残っている。

「自分の攻撃力をどう上げていくかという思いがあったなかで、そこでゴールを決める、枠に飛ばせるように力を上げていかないといけないと痛感しました。チームのまとまり、戦術・規律は高いものがあっただけに、ベスト16という結果は悔しいの一言でした。自国開催ということもあってグループリーグはロシア、ベルギー、チュニジアで、決勝トーナメント1回戦がトルコ。今年のカタールW杯で日本がドイツ、スペインと同居したように、世界トップクラスの国が入ってくる確率が高いなかで、組合せで言えば、日韓W杯はもっと上に行けたんじゃないかと思います」。

 明神は日韓W杯後も柏レイソル、ガンバ大阪、名古屋グランパス、AC長野パルセイロでプレーし、41歳まで現役を続けた。W杯の経験はキャリアにどのような効果をもたらしたのか。

「ベスト16に行った喜びよりも、自国開催のW杯で日本代表のユニフォームを着て戦えたのは名誉なこと。大会から20年が経っても当時を振り返る機会をいただくと、自分がそういう舞台でプレーしていたんだと思い出します。あの日韓W杯はどの大会よりもいろんなシーンを覚えているし、記憶に残っている出来事が多いです。『あのW杯の基準を常に目指して戦わないといけない』と意識は間違いなく上がりましたし、日本代表を背負って戦ったメンバーと見られるプレッシャーがあるわけで、自分を強くしてもらいました」

 引退して、指導者へと転身した明神の中で日韓W杯は今なお特別な大会だ。

(文中敬称略)

[プロフィール]
明神智和(みょうじん・ともかず)/1978年1月24日生まれ、兵庫県出身。柏ユース―柏―ガンバ大阪―名古屋―長野。J1通算497試合26得点、J2通算20試合0得点、J3通算38試合0得点、日本代表通算26試合3得点。シドニー五輪や日韓W杯でも活躍した職人タイプのボランチ。2020年から古巣であるガンバ大阪アカデミーのコーチを務め、日本サッカー界の発展に尽力する。

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