中村俊輔の“新たな出発点” W杯落選で失意のレフティーが飛躍、カメラマンの目に焼き付いた2つの試合
【カメラマンの目】2002年の強く印象に残っている2試合を回想
サッカーは選手、スタッフ、レフェリー、記者・解説者、フォトグラファーなど、それぞれの立場から見える世界がある。22歳の時からブラジルサッカーを取材し、日本国内、海外で撮影を続ける日本人フォトグラファーの徳原隆元氏が、11月10日に行われた元日本代表MF中村俊輔の引退記者会見を取材。カメラマンの目に映った独自の光景をお届けする。
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日本サッカーの発展に大きく貢献してきた稀代のレフティーが、ついにスパイクを脱ぐ決断を下した。26年間の選手生活にピリオドを打ち、引退会見に臨んだ中村俊輔は壇上の席に着くとまず笑顔を作った。
中村はプロ選手を締め括る最後の仕事を終始、笑顔でこなしていった。その表情は実に晴れやかだった。
だが、長きに渡ったトップレベルでの戦いは、もはや人生とも重なり、楽しいことばかりではなく多くの困難にも直面した選手生活だった。今、こうして中村の26年のプロ生活を振り返ってみると、彼を大きく成長させたのは2002年だったのではないかと思う。そして1人のカメラマンとして、中村の思い出のページをめくってみると、この02年に強く印象に残っている試合が2つあった。
自国開催のワールドカップ(W杯)でプレーすることが叶わなかったことは、中村にとって失意の出来事だったろう。しかし、その苦い経験を原動力に、中村はさらなる飛躍を誓う。日韓W杯後、中村は戦いの場を世界へと広げ、さらに4年後のドイツW杯を目指す代表チームでも、新監督に就任したジーコのもとで飛躍することになる。
中村自身、会見でターニングポイントと話したレッジーナへの移籍。彼の思いと同じくイタリアのクラブへと移籍し迎えた、02年9月15日アウェーの対ペルージャ戦は、世界に挑戦した中村をゴール裏からカメラのファインダーを通して初めて見た試合であり、今でも強く印象に残っている。
深紅色のユニフォームを身に纏った背番号10は司令塔として活躍し、プレースキッカーも任され、90分間フル出場を果たすことになる。中村が創り出した精度の高いパスとキックはチームの武器として存在感を放ち、そのプレーは舞台をイタリアに変えても十分に通用することを実感させた。
徳原隆元
とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。