内田篤人、代表続行の決断の裏側 「このまま終われば、何か負け犬のような気がする」
今も胸に刻む恩師の言葉、「チャラチャラするなよ。サッカー選手はサッカーで示せ」
ブラジルから帰国したばかりの内田篤人は、茨城県鹿嶋市に向かって車を走らせていた。2010年7月に移籍してから4年が経つが、帰国時には必ず古巣の鹿島アントラーズのクラブハウスに出向くことにしている。いつもと違っていたのは、はっきりとした目的を持っていたことだ。お気に入りの音楽を流しながら、梅雨の合間にしては珍しく日差しが照りつける道を、アクセルを少し強めに踏んで進んだ。
ブラジル・ワールドカップ(W杯)敗退が決まったコロンビア戦の翌日。敗戦のショックが抜けきらない中で「代表の飛行機って成田に着くよね? そうしたら俺、鹿島のクラブハウスに行こうかな」と打ち明けた。あいにく飛行機が到着したのが夜だったため、その足で鹿嶋に出向くことはできなかった。その後は日本代表の解散式に参加するなど予定が立て込み、帰国から4日後の7月1日、ようやく時間が空いたのだ。
鹿嶋に出向く理由は3つあるという。まずは、かつてのチームメートとの再会を楽しむこと。そして、鹿島での4年半が選手としての成長に大きく影響していると考え、関係者に「おかげさまで」「元気でやっています」と顔を見せることだ。最後の1つは、プロ選手として、人間として間違った方向に進んでいないかを確認すること。古巣には、屈託のない意見を言ってくれる先輩や気の置けない仲間がたくさんいる。今回は、3つ目の意味合いが強かった。
コロンビア戦の後、自らの進退について言及していた。「今後、日本代表から引退することは考えていますか」というテレビ局の質問に、はっきりと日本代表から退く可能性について口にした。
「(代表引退について)まぁ、考えてます。日本に帰って、少し休んで考えたい。そのことに関しては今から考えるんじゃなくて、自分の中ではちょっと前から考えていたことなんで、考えようかなと思います。ずっと思っていたんでね。人には言ってなかっただけで」
26歳。まだまだ選手として成長が期待できる。鹿島、シャルケ、日本代表で刻んできたキャリア、実力、実績を考えれば疑問が浮かぶ。そして何よりも、ブラジル大会の3試合を通じて見せた大舞台でも動じないパフォーマンスは、「自分らしく」プレーできなかった日本代表において、特筆すべきものがあった。そんな選手が「代表引退」を示唆したのだから、大きな衝撃を与えた。
ただ、本人は「大した問題かな。そんなに騒がれることかな」と言った。年代別代表にも選ばれ、フル代表でも71の出場試合数を刻んでいる。その重みは十分に理解しているが、このタイミングでの再考は既に2年前から決めていた。彼にとってみれば予定通りの行動だったのだ。
引退を示唆してから一夜明け、内田は報道陣にこう打ち明けている。
「それ(代表引退)って人に言われて決めることじゃないからね。自分の中でいろいろ整理して決めることだと思う。もちろん代表のことはリスペクトしているし、重みというのも分かっている。ただ、自分の中でちょっと前から、この大会が終わったら考えようと決めていた。今始まった話じゃないから、俺の中では。
身体的負担。それもあるだろうし。でも、それよりも前から、考えるって決めていた方が大きいかな。クラブも代表もリスペクトしている分、何だろう、100%でいられない自分っていうのが、もどかしいという思いはある。ただ、それだけじゃないからさ。前から考えるってことだからさ」
12年2月に1度、日本代表からの引退を決意した瞬間があった。アルベルト・ザッケローニ監督の部屋を訪れ、その意志を伝えに行くと決めた。欧州と日本との往復などで良い状態が保てなくなり、シャルケでポジションを失った時期だった。結局、部屋を出る直前に代理人を務める秋山祐輔氏から「W杯、日本代表でしか得られないものがある。代表でしか対戦できない選手もいる」という言葉を聞いて、思いとどまった。その時点で、ブラジルW杯までは「引退」を口にしないこと、そして、大会が終わった時点で自分と向き合う時間をつくると決めた。
「アッキー(秋山氏)から言われて、ブラジルW杯まではやろう、と決めたんだよね。余計なことを考えないで、何事も自分のためになると思ってやる。日々のシャルケの練習も、日本代表の試合もそう。やるだけやってみよう、と。W杯に出られるチャンスがあるのに、それを自ら捨てるのももったいないしね。
俺は南アフリカで試合に出られなかった。だから、まだW杯というものを知らない。それを知らないまま代表選手を終わるのはもったいないとも思うし、W杯に出られないまま代表にいなくなったら、逃げたと思われるのも何だか格好悪いでしょ。だから、やってみようと。選手のみんながあれだけW杯と言うのだから、自分の知らない世界がW杯にはあるんだろうと思った」
やり抜く決意は固めた。「ブラジルまではやり続ける」と。
たが、代表引退を考える時間がゼロになったかと言われれば、それはうそになる。度重なる肉離れなど、取り巻く状況は変わらなかった。試合は当然、毎日の練習でも全力勝負が繰り広げられるドイツ。黄色い歓声が飛び交うスタジアムで、必ずしも本気ではない対戦相手と交わる日本代表とは、同じサッカーでも一線を画す。心の中で貫くことを決めたが、目の前にある現実は何一つ変わらなかった。
ただ、自分が一度決めたことは曲げない性格だ。黒以外の頭髪でピッチに立たないのは、清水東高校時代の監督で、今も恩師と慕う梅田和男氏との約束を守るため。「チャラチャラするなよ。サッカー選手はサッカーで示せ」と教えを受けた。クラブを離れて4年が経過しても、帰国時に鹿島に出向くことも欠かさない。これが正しいと思ったら、その道を突き進む芯の強さを持っている。