「W杯を分かっていなかった」 呂比須ワグナーが夢のフランス大会で後悔した出来事は?

呂比須は年下の名波(10番)から「ロペちゃん」とからかわれていたと笑った【写真:Getty Images】
呂比須は年下の名波(10番)から「ロペちゃん」とからかわれていたと笑った【写真:Getty Images】

呂比須から見た当時の日本代表メンバーの印象は?

 中田英寿や小野伸二(現・北海道コンサドーレ札幌)といった選手たちが、若くしてW杯を経験したのは、その後の日本にとっても重要なことだった。

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「当時、ヒデは21歳、伸二は18歳だったけど、非常にクオリティーの高い選手たちだった。いいパーソナリティーを持っていたし、何をすべきかを分かっていた。だから、彼らに『ああしなきゃいけない』『こうすべきだ』というような話をしたことはない。彼らと一緒にプレーできたことを特権のように思うよ。特にヒデがあのW杯で、すでに日本代表の主役の役割を引き受けていたのも、当然だと思う。桁外れのタレントの持ち主で、パワーと技術力があり、ピッチの外でも真面目な人間だった」

 当時のチームには、今でも日本サッカーのレジェンドとみなされる選手たちがいた。

「あのチームの一端を担えたことを神に感謝したい。僕が今でも尊敬し、親しみを感じているのが、ヤマ(山口素弘)だ。彼のプレーが好きだった。的確なパスを出すし、試合でのミスが本当に少ない。彼のことを『シェガード』と呼んでいた。ポルトガル語で『すごく仲のいい人』の意味だよ。井原(正巳)さんはとてもポジティブにリーダーシップを発揮するキャプテンだった。

 名波(浩)は面白いヤツでね。みんなは僕を『ロペ』と呼んでいたのに、彼だけは『ロペちゃん』ってからかうんだ。僕は『オレハ、トシウエ(年上)ダゼ!』って怒って(笑)。名波やヒデ、サイドバックの名良橋(晃)や相馬(直樹)とは、試合中の連携が多かったから、いつもプレーの話をしていた。例えば、相馬が左サイドで上がったら、名波が守備のカバーに入る。相馬は強くてスピードがあって、1対1で止められることはあまりないから、彼がタッチライン際まで来た時には、僕はニアに走り込むために対角線上になっている。そして、彼のクロスに対してポストプレーをするか、僕自身が決める。そういう形をいつも練習していたんだ」

 呂比須が「僕自身、選手生活を経て、監督としての経験も増した今だからこそ言える意見だけど」と話し始めたことがある。

「スイスで事前合宿をやって、W杯に臨んだんだけど、その間、家族が訪ねることは許可されていなかったんだ。それで選手同士で話したものだよ。『こんなに長い間、家族に会えないなんて』って。僕もあの期間、2人の息子たちが恋しかった。でも、当時は試合に集中するために、隔離状態で合宿するのが当たり前だったし、岡田さんはいつでも僕らにとっていいことを、非常に細かいところまで考えてくれた監督だ。僕ら自身も初めてのW杯を戦うからには、何を犠牲にしても、いい大会にしたかった。ただ、今の僕が責任者であれば、休日には家族がホテルで選手を訪問することを認める。あれほど厳しい状況なんだから、感情面でバランスを取ることも必要だ。それが僕の見方だ」

藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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