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驚くべき南アフリカW杯への道筋 玉田圭司が「再生してくれないか」の一言に感じた岡田監督のプランニング力
心に残った岡田監督の言葉「お前がFWの中心として責任感を持ってやって欲しい」
南アフリカW杯に向けてだけでなく、日本のサッカー史のターニングポイントだったと玉田は指摘。それほど、岡田監督の存在は南アフリカW杯メンバーにとって、とてつもなく大きかった。当時30歳だった玉田は直接「お前がFWの中心として責任感を持ってやって欲しい」と声を掛けられたこともあった。何より玉田が驚いたのが、岡田監督の“プランニング力”だという。
「岡田さんは2008年に就任したけど、2007年、僕は名古屋でくすぶっていた。その時、岡田が間接的に名古屋のGMに連絡して、『玉田を再生してくれないか』と言ってくれた。その後、僕は名古屋で試合に出られるようになって、中心選手になって、すぐ(日本代表に)呼ばれた。岡田さんの中ではもうW杯に向けてのプランみたいなのがあったんだと思う」
2007年11月、当時の日本代表を率いていたイビチャ・オシム氏が急性脳梗塞で緊急入院。2008年2月から始まるW杯アジア3次予選での指揮が厳しい状況となり、後任に就任した。この時から岡田監督の中でW杯への長期的な道筋が描かれていた。一方で、大会直前には思い切って舵を切る決断力、修正力もあった。この背中を選手はずっと追ってきた。そして監督は、選手1人1人との対話を重んじてきた。だからこそ、南アフリカW杯でのベスト16入りが実現した。
玉田にとっても、日本サッカーにとっても絶対に忘れられない歴史の1ページ。これは間違いなく、岡田監督率いる南アフリカW杯メンバーが一丸となって築き上げたものだ。
(文中敬称略)
[プロフィール]
玉田圭司(たまだ・けいじ)/1980年4月11日生まれ、千葉県出身。名門・習志野高校から99年に柏レイソルへ入団。プロ5年目で主力に定着し、2桁得点をマークした。2004年に日本代表へ初招集。名古屋グランパスへ移籍した06年にはドイツW杯へ出場し、第3戦ブラジル戦でゴールを決めた。10年南アフリカ大会でW杯2大会連続出場。国際Aマッチ通算72試合16得点を記録した。セレッソ大阪、V・ファーレン長崎にも所属し、Jリーグ通算511試合131得点した左利きのストライカー。21年に現役引退を引退した。