鹿島伝説の助っ人DFジョルジーニョ、勝利のスピリットを植え付けたサッカー哲学とサポーターへの不変の愛

かつて鹿島で活躍したジョルジーニョ【写真:Getty Images】
かつて鹿島で活躍したジョルジーニョ【写真:Getty Images】

【あのブラジル人元Jリーガーは今?】ジョルジーニョ(元鹿島):前編――現役引退後、代理人業を経て指導者の道へ

 ブラジル代表として1994年のアメリカ・ワールドカップ(W杯)で優勝を果たしたDFジョルジーニョは翌年、鹿島アントラーズに加入し、4年間の在籍でJリーグとスーパーカップで2回、Jリーグカップと天皇杯で1回の優勝に貢献した。そして、2012年には監督として鹿島に復帰し、Jリーグカップとスルガ銀行チャンピオンシップでのタイトルに導いた。勝者のスピリットをチームに植え付けたジョルジーニョが、監督として歩み続ける人生と、そのサッカー哲学を語ってくれた。

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 1999年、選手として鹿島を去ったジョルジーニョは、ブラジルに帰国後、サンパウロFC、ヴァスコ・ダ・ガマ、フルミネンセでプレーし、2002年にスパイクを脱いだ。

 引退後、彼がまず挑戦したのが代理人業だ。それと並行し、社会活動に力を注ぐようになった。それが「ボーラ・プラ・フレンチ(=ポルトガル語で『ボールを前へ』。転じて『困難を乗り越えて前へ進もう』という意味)』という施設で、現在も続いている。

「リオデジャネイロの経済的に苦しい地区に住む青少年に対し、勉強や芸術、スポーツに取り組む機会を与えて、人生へのモチベーションを持ち続けられるようにしているんだ。15歳以上では、英語やパソコンなどの職業訓練も行なっている。スポンサーは金銭や物資によってサポートしてくれる企業以外に、ここで学んだ若者を雇用してくれる企業もあるんだ。この仕事は戦いだよ。でも、厳しい環境に生きる青少年が機会を得るための手助けができれば、地域の希望になる。だから、常時何百人もの面倒を見ているんだ」

 ジョルジーニョが初めて監督を務めたのは2005年のこと。選手引退から3年間、家族と穏やかな時間を過ごした彼は、アメリカRJに要請された際、「ピッチに戻るべき時が来た」と考えた。翌2006年には、ブラジル代表監督に就任したドゥンガのアシスタントコーチを務めることになった。

「ほとんど監督経験がなかったとはいえ、僕らは自分たちに良い仕事をするコンディションがあると分かっていたんだ。ドゥンガは12年間、僕も8年間、フル代表でプレーし、代表におけるノウハウや知識、経験を持っていたからね。僕らは自分たちの仕事に責任を持ち、全身全霊を尽くした。そうやって、2007年のコパ・アメリカ(南米選手権)、2009年コンフェデレーションズカップでタイトルを獲り、2008年北京五輪でも銀メダルを獲得した。ただ、一番重要なW杯で優勝を達成できなかったけどね」

藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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